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そんな事ありません。ただし母国語で論理的な文を書けるようになるためには、それなりの訓練が要ります。本来はその訓練は小中高までの母国語(国語)の先生がするはずなのです。しかし、日本では論理的な文章を書ける国語の先生が少なすぎるのか、あるいは文科省の指導要領があまりに稚拙で、先生がそれを教えたくてもそれを妨げているのか、どちらかの理由なのでしょう。その結果、ほとんどの日本人は論理的な文章の書き方の訓練を受けて来ないので、このような質問が出てきてしまうのでしょう。

例えば、フランスの高校の国語の教科書の出だしでに次のような文章が載っていたと聞いたことがあります。

「今回は長い手紙を書いてしまい申し訳ありません。短い手紙を書く時間がなかったのです」

ここに、論理的な文章とは何かの真髄が表現されています。

国語の授業では現代文も古文を含めて、1)話の展開の面白さや、2)心のひだに触れる情緒的な表現を重要視する小説や和歌や俳句など、論理的緻密さよりも1)と2)が重きをなす文芸作品の鑑賞、それに、3)文法の基礎知識、を教えます。これらのことは重要です。しかし、現代社会ではそれ以上に、ビジネスの手紙や学術論文や、それらの口頭による表現の際、4)相手に誤解されずにこちらの言いたいことを伝える意思疎通の能力、が重要になっています。でも、学校の国語の先生は4)の訓練をほとんど受けていないのが現状のようです。

実際、運悪く学生指導に時間を割いてくれない指導教官に当たらない限り、理工系の博士課程を修了できた人の文章は母国語で書いても十分に論理的な文章が書けるようになっています。ですから理工系の博士号を取得できた者には自動的に国語の4)を教えることができる教員資格を与えよ、と言うのが私の持論です。

私が日本人の大学院生を指導する場合、英語の論文を書く際に、まず日本語で文章を書かせ、その論理構成を徹底的に添削指導します。日本語で論理的な文章になっていれば、英語に翻訳してもしっかり論理的な文章になっています。もちろん翻訳と言っても直訳ではありません。英語には英語特有な表現があるのですから、その部分も同時に指導します。日本語での理解がしっかりしていない人の文章は、英語で書いたからと言ってそれで理解できるようになるわけではないので、ひとまず母国語で徹底的に理解してもらうのが先なのは当たり前なことです。

すごく面白い現象なのですが、院生の書いていることをこちらが理解できないので、
「お前は何を言いたいのだ」
と聞いてみる。すると、ああだこうだと説明する。その説明を聞いているうちに、なるほどと、こちらも何が言いたいのか判ってくる。そんな時、私が決まって院生に言う言葉は、
「だったらそう書けばいいじゃないか」
です。そして、
「あんたって不思議な人だね。自分で考えていることを考えている通りに書かずに、わざわざ別な表現で書いてしまうんだね。あなたの頭ってどうできているんだろう」
って皮肉交じりにからかったりします。

このような訓練と経験を繰り返して行くうちに、英語だろうが日本語だろうが何語だろうが、初めから論理的に考えることが出来るようになってきます。その段階にきたら、日本人でも日本語を経由せずにいきなり英語で書いても、論理的な英語の論文が書けるようになっています。

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参加日: 2020年1月