皆さま、このアニメーションをご存じのことと思います。
この名作の舞台はフランダース地方、つまり現在のベルギーのフランドル地方です。
もしこれがベルギーの農村部ではなく、イギリスの農村部であったら、ネロとパトラッシュはあんな悲しい運命に陥らずにすんだかもしれません。
「なぜそうなのか」をお話しすることは、「なぜ世界で最初に産業革命が興ったのがイギリスなのか」という、ご質問にお答えすることでもあるのです。
以下では、順を追ってご説明申し上げます。
さて、皆さま、OECD(経済協力開発機構)に加盟、つまり、経済でワールドデビューを果たした国々は、現在何ヶ国あると思われますか?
加盟国は2020年7月時点で37カ国で、地図で表すことこんな分布になります。濃い青は設立当初にOECDに属していた国、薄い青はその後に加盟した国です。
この地図をご覧になって
「案外塗られていない国が多いんだな」
とお感じになったあなた。たいへん優れた直感力をお持ちの方です。すばらしい。この問題の本質を突いておられます。
そうなのです。OECD加盟国は少数派なのです。
実際、発展著しい中国・インド・ブラジルが未加盟ですし(加盟に向けて動いてはいますが)、ユーラシアのほとんどは真っ白(ロシアが加盟審査中にクリミア紛争を理由にBANされています)、アフリカも蚊帳の外で加盟の気配がほぼありません[math]^1[/math]。
現在、国連加盟国はおよそ200カ国ほどです
皆さま、このアニメーションをご存じのことと思います。
この名作の舞台はフランダース地方、つまり現在のベルギーのフランドル地方です。
もしこれがベルギーの農村部ではなく、イギリスの農村部であったら、ネロとパトラッシュはあんな悲しい運命に陥らずにすんだかもしれません。
「なぜそうなのか」をお話しすることは、「なぜ世界で最初に産業革命が興ったのがイギリスなのか」という、ご質問にお答えすることでもあるのです。
以下では、順を追ってご説明申し上げます。
さて、皆さま、OECD(経済協力開発機構)に加盟、つまり、経済でワールドデビューを果たした国々は、現在何ヶ国あると思われますか?
加盟国は2020年7月時点で37カ国で、地図で表すことこんな分布になります。濃い青は設立当初にOECDに属していた国、薄い青はその後に加盟した国です。
この地図をご覧になって
「案外塗られていない国が多いんだな」
とお感じになったあなた。たいへん優れた直感力をお持ちの方です。すばらしい。この問題の本質を突いておられます。
そうなのです。OECD加盟国は少数派なのです。
実際、発展著しい中国・インド・ブラジルが未加盟ですし(加盟に向けて動いてはいますが)、ユーラシアのほとんどは真っ白(ロシアが加盟審査中にクリミア紛争を理由にBANされています)、アフリカも蚊帳の外で加盟の気配がほぼありません[math]^1[/math]。
現在、国連加盟国はおよそ200カ国ほどですが、OECDにはそのうち2割も属してはいないのです。
「なぜこんなにワールドデビューできた国が少ないのか」というご疑問を持たれるのは当然です。
その答えは「なぜイギリスで産業革命が始まったのか」というご質問への回答をお示ししていくと、その延長線上に見えてくるものと思います。
本格的なご説明をさせていただく前に、まずご理解いただきたい点を述べます。
それは、今から、およそ200年前に産業革命は世界を二つに大きく分岐させたという事実です。これを大分岐(Great Divergence)と呼びます[math]^2[/math]。
産業革命が起こらなかったら、むろんOECDも存在しないでしょうし、われわれは少なくとも紀元前1000年ころとほぼ同一の生活レベルにあって、口元まで押し寄せる生活苦に溺れそうになる日々をおくっていたことでしょう。
「少数の豊かな国」と「多数の貧しい国」とに世界を二分するほどの大きなインパクトを与えた産業革命、それはなぜ、世界のどこでもない、イギリスで始まったのでしょうか?
以下では、最新の研究成果をご紹介しながら、回答をお示ししていこうと思います。
なお、いつもながら申し訳ないのですが、長文です(私の講義1回分にほぼ相当します)。しかしながら、太字と図表を中心に読んでいただいても大意を把握していただけるように構成してありますので、飛ばし飛ばしでもお付き合いくだされば幸甚に存じます。
結論
最初に結論を書きます。
21世紀に入ってから、この問題の解明は長足の進歩を遂げました。
最新の研究成果が明らかにした「なぜ世界で最初の産業革命がイギリスで起こったのか」、その主要な理由は以下のとおりです。
イギリスでは、
- 都市化と製造業・商業の発展による労働者の高賃金化が生じたこと
- 都市の消費に対応するための農業革命が進展したこと(ノーフォーク農法への転換)
- 木炭・薪から石炭へのエネルギー革命がきわめて安価に達成されたこと
- 教育への支出増大による、新規産業に不可欠な識字率・計算能力の向上が実現したこと
つまり、結論をごく簡潔に要約すれば、
- この4条件が世界で初めてすべて揃ったのがイギリスであり、
- 産業革命は、高賃金に耐えかねて、生産を人力生産から機械生産へと切り替えたことをきっかけに始まり、
- その機械を動かすエネルギーとしての良質の石炭が、幸運にも、イギリスでは都市近郊部において露天掘りで安価に入手できたがゆえに、
- イギリスの産業革命は継続し、以後100年以上にわたって、イギリスは世界最大の経済力を持つようになった
ということになります(教育については後述)。
ただし、これだけではあまりにも説明不足なので、以下では、それぞれについて説明いたします。
Ⅰ 重要な指摘:イギリスの賃金は産業革命[前]にすでにきわめて高くなっていた
まずは――皆さんの直感に反するかもしれませんが――重要な事実を指摘しておきます。
それは、イギリスでは、産業革命前において、都市化と高賃金が生じていたという事実です[math]^3[/math](これに関する記載は投稿末の〔補論1〕にまわしますので、ご興味のおありの方はご笑覧いただければ、幸甚に存じます)。
ポイントは、イギリスでは
- 産業革命の後に賃金が上がったのではなく
- 産業革命の前にすでに世界で最も賃金が高くなっていた
という点です(のちにグラフを用いてイギリスの高賃金についてご説明いたします)。
Ⅱ イギリスにおける都市化の進展
イギリスは世界中との貿易を発展させて(さらに植民地からの富の収奪によって)、富が国内に流れ込み、旺盛な消費が沸き起こりました。
最も消費が盛り上がるのは言うまでもなく都市ですから、都市は人々を惹きつけ、イギリスでは都市化が急速に進みました。
その結果、イギリスにおいては、産業革命が始まる直前には、都市人口が他国より急増していました。以下の表をご覧下さい[math]^4[/math]。
これは、1500年から1750年における、各国の産業分野ごとの人口比率の変化を一覧表にしたものです。
1500年のイギリスでは「圧倒的に農業人口が多く、都市人口が7%と少なかった」のに対し、産業革命がまもなく始まろうとする1750年には「都市人口が3倍増(23%)」にまで達しています。これほどの急激な都市化を経験した国は、イギリスを除いて、当時の世界にはありませんでした。
産業革命は1760年代から1820年代にゆっくりと進みましたが、逆行不能の大変化でした。そして、その直前までに、イギリスでは急速な都市化が進んでいたのです。
Ⅲ 農業革命の進展:都市化を支える食糧増産の成功
都市の最大の特徴でありアキレス腱でもあるのは、都市内部ではほぼ食糧生産ができない点にあります。都市が都市たりうるのは、外部から都市に食糧が供給されるがゆえです。
都市化が急激に進展すると、それにともなって、農業生産の拡大が必要になります。
そこで、それに対応するために起きたのが農業革命でした。一般的には第二次囲い込み運動として知られる動きですが、従来の三圃式農法を、休耕地をなくすノーフォーク農法に切り替え、農業生産を飛躍的に引き上げる農業の革新が、都市化を支えました。
ノーフォーク
とは地名で、ロンドンから見て北東に位置する、北海に面した地域です。ここで行われていた農業は、従来の三圃式農法 とは違い、休耕地を必要としない輪栽式農業の手法で、下の図に示しましたとおり、同一耕地で
〔かぶ〕→〔大麦〕→〔クローバー〕→〔小麦〕
を4年周期で輪作します。
※この図は、pixabayのフリー素材から投稿者が作成したものです。
クローバーは空中の窒素の固定化を行って土地を肥やし 、家畜(牛)は餌としてかぶを食べて肉と堆肥を作り出しましたので、休耕地が不要になります。
このことから容易にご想像いただけると思いますが、三圃制農業にくらべ、ノーフォーク農法は農業生産を急増させました。
イギリスでは、産業革命に先駆けて、都市化を支えるために、農業革命と呼ばれる農業生産方式の大革新があったのです。
Ⅳ プロト工業化の進展:食糧増産はさらに進み、都市化が加速する
プロト工業化は、産業革命に先行する時期に見られた、農村部における手工業生産の拡大のことです[math]^5[/math]。
教科書的・通説的には、マニュファクチュア(工場制手工業)の方がよく知られていますが、近年の研究によって、実際に農村で広範に見られたのは問屋制家内工業を基礎とするプロト工業であることが分かってきました(批判も多いですが)[math]^6[/math]。以下の絵は、農村地域で家内工業的に行われていたリネン生産を描いたものです。
※William Hincks, Illustrations of the Irish Linen Industry, 1783
プロト工業は、自給自足的な商品生産を超えて、都市の需要にとどまらず、国際市場での需要まで視野に入れた、域外市場志向の手工業です。
都市化と貿易の発展がイギリスでは生じていましたから、域外志向のプロト産業は大いに栄え、各地のプロト工業の発展は、ますます農産物の需要を拡大したのです。
その結果、農業生産性はますます向上し、第二次囲い込み運動はさらに進み、農業生産を引き上げていくことになりました。
そして、その結果、食糧増産に支えられて都市化はさらに加速し、都市では賃金が上がり続けることになりました。
冒頭で「ネロとパトラッシュの悲しい運命は、イギリスの農村でなら避けられたかも知れない」と書きました。その理由は、このプロト工業化に関係しています。
プロト工業化が起きた地域には共通点があります。
それはある種の悪循環でした。
その地域では人口の急増があり、プロト工業化に従事する人びとが増えます。すると生産が増加することになり、その結果、製品の価格が下がり続けます。
- つまり、農村での安い労働力を前提として、
- 問屋主導で農村に手工業が生まれます。
- その結果、プロト工業に従事する人びとが増加して生産が増加しますが、
- その生産物の需要が十分ではなく、域内はもちろん、都市化が進んでいなかったり、海外に植民地がなく、そこでの需要が大きくはない場合は、早晩生産価格は下がっていき、
- 人口の増えた農村を潤すほどの富をもたらしません。
それゆえ悪循環なのです。
しかし、イギリスは違います。
イギリスがプロト工業の失速をほとんど経験しなかったのは、
- 都市化が進んで都市での需要が旺盛であることにくわえて、
- アフリカやのちにはアジアに大きな植民地を持ち、
- そこでの原材料などの生産物を利用できただけではなく、
- 植民地との貿易を通じて、プロト工業で生み出された製品が大量に需要されていった
ためでした。つまり、イギリスでは好循環が生じていたのです。
つまり、イギリスは急速な都市化を経験し、プロト工業化にまつわる市場も海外にも持っていましたが、ベルギーはイギリスほどではありませんでした。
それゆえ、上記の悪循環ゆえに、ベルギーのフランドル地方の一人ひとりの豊かさはイギリスほどには大きくは上昇しませんでした。
それゆえ、フランドル地方の人びとには、ネロとパトラッシュの悲劇を救えるほどの余裕がなかったのです(泣)。
Ⅳ 産業革命以前に高賃金化した労働力
…….パトラッシュもう疲れたよ、こんな長文……。投稿を読んでおられる方も、もうお疲れのはずだよ……ねぇパトラッシュ。
ハッ!! すいません。思わず本音が、いえ脱線してしましました。ここからはたたみ掛けていきます。
以上のプロセスをへて、イギリスでは、産業革命以[前]に労働者の賃金が他国に比べてきわめて高くなっていました。それがどれくらいの高賃金であるかについては、以下のグラフをご参照下さい[math]^7[/math]。
1500年ごろを境に、ロンドンの労働者の賃金が上昇し始めます。アムステルダムも若干の上昇を経験しますが、17世紀後半以降は上昇が鈍ります。
一方、ウィーンやフィレンツェ、あるいはデリーや北京では、賃金は低下傾向を示しています。
このことから明らかなように、産業革命の開始期である1760年代には、イギリスの労働者の賃金は、ほかの国々よりもきわめて高くなっていたことがお分かりになると思います。
ただ、賃金は、その国の物価に影響されますから、インフレ国では高くなります。そこで、この問題をクリアするために、作成されたのが以下の図です。
これは、その都市の労働者の賃金が、生活していく上での必要最小限の物資(衣食住・燃・照明・石鹸ほか)の購入代金の何倍になっているかを示したものです。
この数値が1を超えて高ければ高いほど、生活必需品を揃えてもなお、労働者にはお金に余裕があったことになります。
結果はきわめて明確な事実を示しています。
つまり、ロンドンの労働者だけが、生活必需品を揃えるお金の何倍もの賃金を得ており、それ以外の都市の労働者は傾向的に時代が進めば進むほどお金に余裕がなくなっていっているのです。
このように、イギリスの労働者は、17世紀半ばの産業革命が始まる前の段階で、世界で最も高い賃金を得ていたことになります(そして、後述しますが、子供たちに教育を受けさせる余裕も、ここから生まれます)。
そして、これが産業革命の引き金になるのです。
Ⅴ 産業革命の本質:労働集約から資本集約へ
それゆえ、以下のグラフが示すように、イギリスでは、賃金を機械と比較した場合、1650年代以降を境にして賃金が割高になってきています。一方、これと対照的に、ストラスブールやウィーンでは大きな変化がありません。
いままでの3つのグラフが意味するのは、繰り返しになりますが、イギリスでは産業革命開始の[前]に、労働者の実質的な賃金が、他国とは対照的に、きわめて高くなっていたことです。
それゆえ、イギリスでは、大人数の労働者を使用して製品を作ることは、製造業を営む経営者には耐えられないほど割高になり、それゆえ、上記のFigure 3が明確に示しているように、17世紀半ばには、労働力を機械に置き換える生産方式が選ばれることになったのです。
つまり、経済学でいうところの、労働集約的生産方式から資本集約的生産方式への転換です。
これが産業革命の最も重要な本質です。
ここには、イギリスにおける、政治的理由も、制度的理由も、プロテスタントであるという宗教的理由も、科学的優越性も、馬鹿馬鹿しいことですがアングロ=サクソンとしての人種的優越性も関係ありません。
- 経済的合理性が働いて、機械による生産が選ばれることになった。
- それが世界で初めて生じたのがイギリスであった。
これがイギリスで世界初の産業革命が興った理由です。
Ⅵ エネルギー革命:イギリスの僥倖――安価な石炭――
人力を多く用いる生産から機械生産に切り替えるとき、最大の問題となるは、その機械を動かすエネルギーをどうするかという点です。
水力は設置場所が限られますし、風力は安定した動力が得られません。
そこで、誰でも考えつくのは、周りの木材を燃やして水蒸気をつくり、その圧力を利用するという方法です。
しかし、都市周辺の樹木は燃してしまうと、樹木はそう簡単に再生しませんから、燃料としての木材はすぐに枯渇してしまいます。
しかしながら、木材が枯渇しても、イギリスにとって幸運であったのは、都市近郊に露天掘り可能な良質の石炭が大量に埋蔵されていた点です。以下の図をご覧下さい。
John F. Richards, The Unending Frontier: An Environmental History of the Early Modern World, Los Angeles, University of California Press, 2003, p.197 の地図を、投稿者が加工・加筆したものです。
これは1700年ごろのイギリスの露天石炭鉱床の分布です(茶色の部分)。
グラスゴー、エディンバラ、ニューカッスル、バーミンガム、ブリストル、カーディフなどの都市は、露天石炭鉱床の直近に位置する都市でした。
石炭は、海運――のちには蒸気船と鉄道――を通じて、イギリス国内はもちろん、アイルランドへも運ばれて、安価なエネルギーとして広く使用されました。
つまり、イギリスは、都市近郊に良質な石炭の露天鉱床がいくつも存在したがゆえに安価なエネルギーが提供され続け、幸運にも、エネルギー不足が原因で、一度始まった機械への転換が頓挫することはなかったのです(この点に関する詳細は、投稿末の〔補論2〕で論じましたので、ご興味のある方はご参照下さい)。
そして、実際に石炭の価格を各都市で比較すると、以下のグラフのようになります。
ニューカッスルの石炭価格は、アムステルダムの5分の1、パリや北京の10分の1ほどでしたから、イギリスの製造業都市がいかに産業用エネルギーを安価に入手できたかがお分かりいただけると思います。
Ⅶ 都市化・農業革命・商業の発展・高賃金・安価なエネルギー:その必然としての産業革命
以上見てきたように、農業革命と商業の発展および都市化によって、イギリスの労働者は世界で最も高い賃金を得ていました。
それゆえ、1750年ごろには、ついに労働集約的な生産方式は割高となり、機械化、つまり資本集約的な生産方式が、経済合理性にもとづいて選択されることになりました。
そして、この機械を動かすエネルギーとして、イギリスでは地理的な条件が味方し、安価な石炭を豊富に使用できました。
こうした経済合理性と豊富なエネルギーの存在という僥倖が、産業革命を世界で最初にイギリスで興こし、それを継続させることになったのです。
Ⅷ 産業革命の継承:教育の重要性
こうしてイギリスで始まった産業革命は、イギリス製造業の生産力を大きく引き上げました。
そして、ご存じのとおり、産業革命にともなう製造業や商業などの発展は、大きな富をイギリスにもたらすことになりました。
先ほどFigure 2において「イギリスの労働者には、最低生活水準を大きく上回る所得があった」と述べました。
産業革命が豊かな生活を約束することを体験した親の世代は、子供にも高い所得を得られる産業の職に就くことを期待しました。
そうした職に就くには、文字の読み書きや計算能力などが必要でしたから、イギリスでは大衆教育が急速に普及しました。以下の表をご覧下さい。
Robert C. Allen, Global Economic History: A Very Short Introduction, Oxford Univerdity Press, 2011, p. 25 の表に投稿者が倍率を追記しています。
この表は1500年と1800年の識字率を比較したものです。
ヨーロッパはどの国でも識字率の上昇は見られますが、イギリスの識字率は、1500年の6%から1800年の53%にまでの300年間で、9倍増しています。これはこの表の国の中で最も高い倍率です。
1500年のイギリスはヨーロッパでも最も識字率が低い国でした。しかし、その300年後においては大衆教育は広く普及しており、イギリス国民のリテラシーは大きく向上していました。
そして、こうした国民の教育水準の上昇が、産業革命を継承していく人的素地となったのです。
Ⅸ 要約
イギリスは、
- 高賃金ゆえに機械の使用に生産方式を転換して大量生産が可能となり
- その生産方式を、身近で安価な石炭をエネルギーとすることで維持でき
- そのシステムを、大衆教育の普及によって育成された人的資源が継承
しました。
これが、世界で初めてイギリスが産業革命に成功した理由です。
しかし、産業革命が豊かになる途であることは自明なのに、なぜすべての国がイギリスのあとに続かなかったのでしょう? そして、現代世界には、「少数の豊かな国」と「多数の貧しい国」とが存在するのはなぜでしょうか?
その答えは、経済発展の契機となる産業革命を自国内で引き起こす条件を、ほとんどの国では揃えることができなかったためです。
- 都市化と高生産農業の存在が生み出す高賃金。これらが生じなければ、機械を用いた資本集約的な(労働節約的な)生産方式は、そもそもインセンティブがないので、開始されません。
- また、機械を動かすエネルギーが安価に供給され続けなければ、産業革命は継続できません。
- また、大衆教育の普及がなければ、産業革命は継承されていきません。
つまり、
- こうした経済合理性といくつかの必須条件が揃わなかった国は貧しいままの状況から脱することができず、
- 一方で、これらの条件を民間と国とが懸命に揃えた国は豊かになることに成功した
ことになります。
ただし、前者の国の方が圧倒的に多いのが世界の現状であるというのは、いかにも残念なことなのですが……。
いつも以上の長文におつきあいくださいまして、ありがとうございました。
〔補論1〕
以下のフロー図は、Robert C. Allen, ”Progress and Poverty in Early Modern Europe”, The Economic History Review, Vol. 56, No. 3, pp.403-443, 2003 のFigure 3 を、投稿者が邦訳・加筆・修正したものです。
「黄色で囲まれた各変数は、緑で囲まれた各変数に影響を与え」、「緑で囲まれた変数は相互に緑で囲まれた変数同士の間で相互に影響を与えあう」とお考えいただけると、ご理解いただけると思います。図は下から上に(AからDに向かって)眺めていただければありがたいです。
このフロー図にしたがって連立方程式体系のモデルを組んで、因果関係の方向と統計的有意性を検定したアレンの結果は、以下のとおりでした。
イギリスの高賃金に外生的に影響を与えたのは、
- 貿易ブームとそれにともなって流れ込んだ植民地からの富
- 第二次土地囲い込み
- 問屋制手工業の生産性の向上
- 土地・労働比率の上昇。
これらの要因が、
- 都市化、農業生産性、プロト工業化のいっそうの進展を促し、
- それらの相互連関を通じて、
- 最終的に、産業革命前にイギリスの労働者の賃金を、ほかの国に比べて、非常に高くした
ことを、アレンは明らかにしています(この結果に対して、投稿者はいささか疑問なしとはしませんが)。
ただし、これ以上の詳細に関しては、あまりにも計量経済学的にテクニカルになりますので、ここでは割愛いたします。
〔補論2〕
以下の図はロンドンにおける木材と石炭の価格の推移です。
すでに、17世紀後半には木材価格は急上昇し始めたのに対して、石炭価格は長期にわたって安価なままでした。
こういった価格の動きは、ロンドン周辺では木がかなり伐採されて品薄になったにも関わらず、石炭は豊富に供給され続けて価格が安定していたことを示唆しています。
〔註記〕
[math]^1[/math] アフリカ諸国では、唯一、南アフリカだけが、現時点で将来的な加盟を視野に入れた審査がOECDによって行われようとしています。
[math]^2[/math] Gregory Clark, A Farewell to Alms: A Brief Economic History of the World, Princeton Press, 2008, p.2 の図に投稿者が若干加工を行いました。
[math]^3[/math] Robert C. Allen, ”Progress and Poverty in Early Modern Europe”, The Economic History Review, Vol. 56, No. 3, pp.403-443, 2003.
[math]^4[/math] Robert C. Allen, ”Economic Structure and Agricultural Productivity in Europe, 1300-1800," European Review of Economic History, Vol. 4, No. 1, pp.1-26, 2000 より転載。ただし、明らかな数値の間違いなどは投稿者が訂正しています。
[math]^5[/math] Franklin Frits Mendels, Industrialization and Population Pressure in Eighteenth-Century Flanders, Arno Press, 1981.
[math]^6[/math] Peter Kriedte, Hans Medick, and Jürgen Schlumbohm, Industrialization before Industrialization : Rural Industry in the Genesis of Capitalism, Cambridge University Press, 1981、および Leslie A Clarkson, Proto-Industrialization: The First Phase of Industrialization?, Palgrave, 1985 などを参照しました。
[math]^7[/math] Robert C. Allen, The British Industrial Revolution in Global Perspective: How Commerce Created The Industrial Revolution and Modern Economic Growth, Cambridge, 2009. これはQuoraユーザー様が正しくご指摘になっておられる研究書です。
脚注
当時 イギリス フランス オランダ等の文化水準、産業水準は同等だったと思います。大きく違ったのは、3国の中で イギリスが植民地争奪戦に勝ち抜き、エジプト、インド、アメリカの 巨大な 綿花栽培地帯を確保したことだと思います。
それは、原料の調達と 市場の創出という、産業革命の 良き環境を 生み出しました。
そこへ (逆に 多分インドから)多量の安価な 綿織物が 入ってきて、イギリスの織物産業を圧迫。それに対向する為の、低価格化が要請されたことが、産業革命のきっかけではないかと思っています。
そうして紡績、織物の機械化に成功、それをバネにして、多量の安価な綿花を輸入、世界市場に売り出す。
そこへ ワットそのたの新しいエネルギ−活用技術が開発され、産業革命が加速された。
ニュートン力学の誕生は 関係ないと思います。
大きな技術変革は 科学や技術の進歩に寄っている というより 市場環境、需要の変化が大きく影響しています。
もちろん 電力、無線、コンピュータ など、人間自身では不可能な 商品、サービスは 科学・技術が その創成と ある期間の間は先行しています。
(一部追記しています)
実用的な蒸気機関を発明したのがイギリスのワットだからじゃないですか?
あとはイギリス人のチャレンジャー精神ですか?
超ド級戦艦、空母、戦車、などはイギリスが発祥です。
特に空母なんかよく思い付いたと思う。船の甲板を滑走路にする発想は凄いです。
着艦なんか人力で飛行機を止める……というムチャなやり方から始まっています。
ハリアーのペガサスエンジンなんかも、正直言ってなんであんな発想が出来るのかわかりません。
他にも調べればかなり突拍子も無い事を色々と発想しています。
こんなチャレンジャー精神に溢れた国なので、真っ先に産業革命が起きたと思います。