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数年前に実際に実験し、私のブログで紹介したものをシェアさせていただきます。(ちなみにこの実験自体は私のオリジナルということではなく、すでに色々な言語学者がやられていますが、私は自分でやらないと気がすまない性格というだけですw)

左:国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。
右:The train came out of the long tunnel into the snow country.

左は私が描いた絵です。これを完全に隠した状態で、右を英語ネイティブに書いてもらいました。この際は11人のネイティブに試しましたが全員ほぼ同じような絵を描きました。

顕著な違いは、左(日本語)は明らかに電車の中からの視点で、右(英語)は電車の外からの視点ですね。

11人が描いた絵の中で絵が比較的上手なものを選びましたが、これは実は私の夫(イギリス人)です。この実験で私が一番驚いたのは、トンネルの向きが私の絵と全く同じであることです。長年一緒に住んでいると視点が似てくるのか?についても実験したくなりました(笑)

ただこれは、あくまでもエドワード・ジョージ・サイデンステッカーさんの英訳(一番有名)を基にした絵なので、日本語をうまく英語認知用にすり替えているとは思います。主語を“I”にするオプションもあったはずですが、サイデンステッカーさんは、The train の方が英語ネイティブは認知しやすいと考え

数年前に実際に実験し、私のブログで紹介したものをシェアさせていただきます。(ちなみにこの実験自体は私のオリジナルということではなく、すでに色々な言語学者がやられていますが、私は自分でやらないと気がすまない性格というだけですw)

左:国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。
右:The train came out of the long tunnel into the snow country.

左は私が描いた絵です。これを完全に隠した状態で、右を英語ネイティブに書いてもらいました。この際は11人のネイティブに試しましたが全員ほぼ同じような絵を描きました。

顕著な違いは、左(日本語)は明らかに電車の中からの視点で、右(英語)は電車の外からの視点ですね。

11人が描いた絵の中で絵が比較的上手なものを選びましたが、これは実は私の夫(イギリス人)です。この実験で私が一番驚いたのは、トンネルの向きが私の絵と全く同じであることです。長年一緒に住んでいると視点が似てくるのか?についても実験したくなりました(笑)

ただこれは、あくまでもエドワード・ジョージ・サイデンステッカーさんの英訳(一番有名)を基にした絵なので、日本語をうまく英語認知用にすり替えているとは思います。主語を“I”にするオプションもあったはずですが、サイデンステッカーさんは、The train の方が英語ネイティブは認知しやすいと考えたのだと思いますし、ご自身もこの原文を自然にそのように認知したのだと思います。

ここからは蛇足です。。。

では、「日本語を理解できる英語ネイティブはどう認知するのか」を知りたくなり、英語が母語だが、日本語も理解できる私の3人のこども(実験当時17歳、16歳、14歳)に、この日本語の原文を読んだものを絵に描いてもらった結果が大変興味深いものでした。その実験結果は後に私の英語指導理論構築に大きなヒントを与えてくれました。

①長女17歳(英語が母語、日本語はほぼ日本人並み、9歳まで日本に居住):上図左の絵とほぼ同じ(視点は電車の中)→日本語を日本語として認知した。

②長男16歳(英語が母語、日本語は聞いてほとんど理解できるが発話は簡単な単語のみ、8歳まで日本に居住):数回繰り返して日本語原文を聞かせた結果、日本語自体は理解できているにも関わらず絵は描けないという→最終的に「誰がトンネルを抜けたの?」と質問してきた。→日本語は理解できるが、自身の認知は英語優位なためイメージと直結できない→(仮説)ことば上の「理解」はできていても、それをどう認知するかでイメージ化できるかどうかが決まってくる。したがって、イメージ化できなければ自身はその言語を使いこなすことはできない。

③次男14歳(英語が母語、日本語は聞いて少しだけ理解できるが発話はほぼゼロ、5歳まで日本に居住):長男と同様、終始「??」という顔で「誰が?」と聞いてきた。やはり、日本語の文章としては理解しているが、「それだけの情報で絵に描けるわけがない」と協力破棄(笑)

(ちなみに、「古池や蛙飛びこむ水の音」で同じ実験をしたところ、日本人は全員(!)カエルを1匹しか描きませんが、日本語は理解できるが日本語ネイティブではない我が家の子供たちはカエルを何匹も描きました。しかしなぜ日本人はこの「蛙」が1匹だと思うのでしょうかwww)

原作とかなり違うというのは本当ですか?

本当ですね。言語は、ことば上(左脳)で理解できていると思われていても、実は右脳で描いている絵はだいぶ違うということだと思います。

日本人が英語を学ぶダイナミズムはここで、日本語で言えることを英語でも言えるようになるために英語を学ぶのではなく、日本語では言えないことを英語だといえるようになるから英語を学ぶのだと思います。

【追記】サイデンステッカーさんの英語訳はThe trainが主語になっていますので、この英文を読んだ英語ネイティブは上図の右のような絵を描くことはある意味当然なのですが、ポイントは、

・アメリカ人であり日本文学と日本人の認知を知り尽くしたサイデンステッカーさんがなぜ敢えてThe train を主語にしたのか。

・“I came out of the long tunnel on the train into the snow country. ” や
The train which I was on came out of the long tunnel into the snow country. ”としなかったところにサイデンステッカーさんが伝えたい何かがあるはずではないか。

・同じ『雪国』という文学を読んでいるはずだが、言語が変わると伝わる風景は異なっている。

というところだと思います。私は言語学者ではないので、この辺の学術的な議論はできませんが、ここに思いをはせるだけで幸せになります(笑)
一文だけで比較するのはあまり好ましくないかなと思い、以下に川端康成の原文とサイデンステッカーさんの英語訳を記します。

(原文)
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。 娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、「駅長さあん、駅長さあん。」
明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

(訳文)
The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
A girl who had been sitting on the other side of the car came over and opened the window in front of Shimamura. The snowy cold poured in. Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.

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そのことについて、これまでQuoraの中で二度言及したことがあります。「外国語にはない日本語の言葉はありますか?」と「日本語は主語がなくても通じると聞きましたが、どういうことかわかりますか?」という質問に対する返答でした。今回のご質問はずばり日本語原文と英訳文の相違についてですので、すこしだけ詳しく述べてみたいと思います。

私が参照しているのは、日本語学者である金谷武洋の著書『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』です。著者はその中で、彼の恩師である東京大学名誉教授の池上嘉彦が20数年前にNHK教育テレビ番組「シリーズ日本」に招かれて講師として行った言語実験について述べています。

川端康成原作の小説『雪国』の冒頭文を先ず番組で紹介したそうです。「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。」を読んだ日本人が味わう内容を確認します。読者は、主人公と同じ視線で列車の中から窓越しにトンネルの中の暗い外を眺めつつ、トンネルから出るのを未だか未だかと待っています。と、突如として目に入ってきたのは思いもかけない一面の真っ白な世界。読者は、列車の中で時間の経過を主人公と共にしながら、真っ暗から真っ白への突然の変化に主人公の心情を重ねて、小説の始まりの醍醐味を味わいます。

一方、サイデンステッカー氏の英語訳"The train came out of the long tunnel into the

そのことについて、これまでQuoraの中で二度言及したことがあります。「外国語にはない日本語の言葉はありますか?」と「日本語は主語がなくても通じると聞きましたが、どういうことかわかりますか?」という質問に対する返答でした。今回のご質問はずばり日本語原文と英訳文の相違についてですので、すこしだけ詳しく述べてみたいと思います。

私が参照しているのは、日本語学者である金谷武洋の著書『日本語が世界を平和にするこれだけの理由』です。著者はその中で、彼の恩師である東京大学名誉教授の池上嘉彦が20数年前にNHK教育テレビ番組「シリーズ日本」に招かれて講師として行った言語実験について述べています。

川端康成原作の小説『雪国』の冒頭文を先ず番組で紹介したそうです。「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。」を読んだ日本人が味わう内容を確認します。読者は、主人公と同じ視線で列車の中から窓越しにトンネルの中の暗い外を眺めつつ、トンネルから出るのを未だか未だかと待っています。と、突如として目に入ってきたのは思いもかけない一面の真っ白な世界。読者は、列車の中で時間の経過を主人公と共にしながら、真っ暗から真っ白への突然の変化に主人公の心情を重ねて、小説の始まりの醍醐味を味わいます。

一方、サイデンステッカー氏の英語訳"The train came out of the long tunnel into the snow country."を番組に招いた複数の英語ネイティブ話者に読んでもらい、感じ取った情景を絵として描いてもらいました。すると、全員が描いたのは例外なく「トンネルの出口から列車が出てくる風景を上空から眺めている」構図でした。ということは、英文の読者は主人公と視点を共にしておらず、トンネルの中を走る列車の中にも居ないし、暗い世界から白銀の世界へ躍り出た一瞬の驚きも共有していないことがこの実験で分かったのです。

これだけの違いが発生した原因は、原文が主語のない日本語独特の情景叙述文であるのに対し、英文ではとにかく何らかの主語を文頭に据えないと文章として成り立たないため、翻訳者が原文にはなかった"The train"を強引に主語として持ってきたためです。文法が異なると見えている世界も異なっていることを仄めかす実験結果でした。

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私は英語が得意というのではありませんが、いくつか思いついた事があるので、身近の英語の得意なひとの助力を得て、自分なりに考察してみました。

下記の2つの興味深い回答を読み、私が論点と思われる部分を抜き出してみました。

川端康成の「雪国」の有名な冒頭文「国境の長いトンネルを…」が英訳されて出版されたものは原作とかなり違うというのは本当ですか?に対する御厨恒雄 (T. Mikuriya)さんの回答

御厨さんの論点は、
これだけの違いが発生した原因は、原文が主語のない日本語独特の情景叙述文であるのに対し、英文ではとにかく何らかの主語を文頭に据えないと文章として成り立たないため、翻訳者が原文にはなかった"The train"を強引に主語として持ってきたためです。

川端康成の「雪国」の有名な冒頭文「国境の長いトンネルを…」が英訳されて出版されたものは原作とかなり違うというのは本当ですか?に対するオールライト ちえみ (Chiemi Allwright)さんの回答

Chiemiさんの論点は、
主語を“I”にするオプションもあったはずですが、サイデンステッカーさんは、The train の方が英語ネイティブは認知しやすいと考えたのだと思いますし、ご自身もこの原文を自然にそのように認知したのだと思います。

どちらもなるほどと思いましたが、英語圏の人がこの文章を読んで思い描くのは、いづれも雪国側からトンネルを抜け

私は英語が得意というのではありませんが、いくつか思いついた事があるので、身近の英語の得意なひとの助力を得て、自分なりに考察してみました。

下記の2つの興味深い回答を読み、私が論点と思われる部分を抜き出してみました。

川端康成の「雪国」の有名な冒頭文「国境の長いトンネルを…」が英訳されて出版されたものは原作とかなり違うというのは本当ですか?に対する御厨恒雄 (T. Mikuriya)さんの回答

御厨さんの論点は、
これだけの違いが発生した原因は、原文が主語のない日本語独特の情景叙述文であるのに対し、英文ではとにかく何らかの主語を文頭に据えないと文章として成り立たないため、翻訳者が原文にはなかった"The train"を強引に主語として持ってきたためです。

川端康成の「雪国」の有名な冒頭文「国境の長いトンネルを…」が英訳されて出版されたものは原作とかなり違うというのは本当ですか?に対するオールライト ちえみ (Chiemi Allwright)さんの回答

Chiemiさんの論点は、
主語を“I”にするオプションもあったはずですが、サイデンステッカーさんは、The train の方が英語ネイティブは認知しやすいと考えたのだと思いますし、ご自身もこの原文を自然にそのように認知したのだと思います。

どちらもなるほどと思いましたが、英語圏の人がこの文章を読んで思い描くのは、いづれも雪国側からトンネルを抜けてくる列車だという「実験結果」に、ちょっとひっかかを感じました。

言葉は文化に強く依存し、他国にない言葉や言い回しがあります。そういう場合に、原文になるべく近い文章の再現を優先するか、文意の再現を優先するか、という選択になるかと思われます。

下記の場合には、訳者の理解が違っていたか、原文になるべく近い文章になる事を意図的に優先したのか、そのどちらかであったと、まずは個人的に推測しました。

「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。」

"The train came out of the long tunnel into the snow country."

そこで、私の知り合いの中で、英語が得意なひと2人に、聴いてみました。

1)英語の教育と翻者を仕事にしている友人の返事。

tunnelのあとand I saw the snow-covered landscapeとか、とにかくトンネルのあとに「自分が目にした」と主語を変えますね。日本人です。(笑

2)私の息子。幼稚園から高2まで香港のインター校。その後で日本の高校へ編入して、いまは日本の大学の3年生。今でも日本語より英語の方がだいぶ得意で、テスト準備なしでもTOEICで満点近く取り続けています。

息子)これは文脈次第だね。どっちでも取れる。あー自分だったら、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」は、After the long tunnel of the border, came a Snow Countryにするかな。後方照応で若干古い表現だけど。古いというか仰々しい。snow country は固有名詞だから据え置き。

私)(友人の返事を参考に)came a snow country のかわりに、 I saw the snow-covered landscape というのはどうだろうか。

息子)でも間違いではない。ただ原文に一人称がないから。

私)その辺は訳者の趣味なのかな。もともとの日本語は主語を略してしまうので。(御厨さんは、訳者が"The train"を強引に主語としてもってきたと解説してますが、息子には伝えていません)

で、2人からの返事をもとにして、私の個人的な結論ですが、

もともとこの文章には(日本の文化にはありがちで)主語がなかった。サイデンステッカー氏は英語的な表現にする過程で、"The train"という主語を創設した。サイデンステッカー氏には日本的な文化背景があったので、氏のイメージの中では列車の窓から、トンネルの外の雪国の景色を見ていた。しかし、日本的な文化背景を持たない英語圏の人が読むと、10人が10人とも、雪国側から見て、トンネルから出てくる列車を想起する文章になってしまった。この文章を、もともとの日本語の文章の意図に合わせる為には、原作者が想定していた”私”に戻してみてはどうか。

という事で、2人の返事をくっつけてみました。

After the long tunnel of the border, I saw the snow-covered landscape.

蛇足ですが、下記の2つの英文について、翻訳ソフトの結果を示しましたのでご参照ください。

The train came out of the long tunnel into the snow country.

列車は長いトンネルを抜けて雪国に到着しました。(google)

列車は長いトンネルを抜けて雪国に出てきた。(DeepL)

After the long tunnel of the border, I saw the snow-covered landscape.

国境の長いトンネルの後、雪に覆われた風景が見えました。(google)

国境の長いトンネルを抜けると、雪国の風景が広がっていました。(DeepL 2020/01)

国境の長いトンネルを抜けると、そこには雪景色が広がっていた。(DeepL 2021/10)

福本 健一さんのプロフィール写真

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

これを、有名なサイデンステッカー氏の英語訳では、

"The train came out of the long tunnel into the snow country."

となっています。他の方が指摘している通り、日本語では汽車の中からの視点、英語では汽車を外から見ている視点という違いが出てしまいます。

この英訳文は、日本語、さらには日本語話者的な発想に、極めて忠実に訳されていると言えます。

英語と日本語の発想の方法の違いとして、英語は人間中心、日本語は状況中心というものがあります。

例えば、「営業中」や「閉店中」をいうのに

"Yes, we are open." "Sorry, we are closed."なんていう看板を見ます。

これ、状況中心の日本人的発想だと、"This shop is open."とか、"This shop is closed."なんて言いたくなります。

また、「ここはどこ?」というのに、"Where is here?"とか、”Where is this?”とか言いたくなるのも、状況中心の日本人的発想です。人間中心の英語の発想だと、"Where am I?"とか"Where are we?"となります。

また、『雪国』という書籍を借りたいとき、"Is there 'Snow Country' in this library

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

これを、有名なサイデンステッカー氏の英語訳では、

"The train came out of the long tunnel into the snow country."

となっています。他の方が指摘している通り、日本語では汽車の中からの視点、英語では汽車を外から見ている視点という違いが出てしまいます。

この英訳文は、日本語、さらには日本語話者的な発想に、極めて忠実に訳されていると言えます。

英語と日本語の発想の方法の違いとして、英語は人間中心、日本語は状況中心というものがあります。

例えば、「営業中」や「閉店中」をいうのに

"Yes, we are open." "Sorry, we are closed."なんていう看板を見ます。

これ、状況中心の日本人的発想だと、"This shop is open."とか、"This shop is closed."なんて言いたくなります。

また、「ここはどこ?」というのに、"Where is here?"とか、”Where is this?”とか言いたくなるのも、状況中心の日本人的発想です。人間中心の英語の発想だと、"Where am I?"とか"Where are we?"となります。

また、『雪国』という書籍を借りたいとき、"Is there 'Snow Country' in this library?"と訊きたくなるのが我々日本人。"Do you have 'Snow Country' here?"と言うのが英語原語話者。

もう一度、原文を見てみます。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

これは、極めて日本語的に、「状況中心」の描写です。これをそのまま

"The train came out of the long tunnel into the snow country."

と訳した。しかし、それを人間中心の視点で、

"Shimamura found it the snow country when his train came out of the long tunnel." (島村目線でなく、もう少し一般化したければThey found ~でも)

とすれば、ずいぶんイメージは違ったでしょうね。

想像ですが、訳者のサイデンステッカー氏は、このような日英の発想の違いは、分かっていたのではないか。

その上で敢えて、日本語的に「状況中心」の英語に訳し、日本人の発想を尊重した。ただ、それが、「誤解」を生んでいるのだとしたら、残念です。

でも、結果的に、川端康成氏はノーベル文学賞を受賞したのだし、この問題は些細なものだったのでしょう(問題にさえならなかったかも・・・)。

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色々語られていますが、この問題は、単純に、訳が下手だったのです。

主語を必要としない日本語の素晴らしい表現を、TRAINを主語にした訳でなんとかなると思った、低レベルだったというだけです。

主語は 雪国を設定すべきですが置いといて

この間違いを 文法の違いと説明するのも意味がありません。

英語では、AがBへ向かうのも BがAへ向かうのも 神が天上から見る場合に同じなのです。これが絶対的な価値を持っている英語です。 ですからそれが入れ替わったことは大きな問題ではないのです

日本語の 主語がない、状態を抒情的に語る美しさを訳に盛り込む必要があります。

例えば主語を使うなら、  雪国がトンネルの外で私の列車を待っていた。というレトリックをもってこれば なんとか訳になります。 It was such a beautifully silent snow area that was waiting me out there from a long tunnel trip.  (驚きににた静かな感動 を表現している、ということが訳せないならそれはこの物語の訳になりません。例示されてる英訳は逐語訳以下のレベルです。)

有村 和彦さんのプロフィール写真

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

日本人からみると、最初の文の主語が私であることは明らかですし、この小説は最後まで第一人称的な書き方であることからして、列車がトンネルを抜ける様子を客観的に描写しているものでないことは明らかだと思います。訳者はあまり細かく考えていないと思います。小説の冒頭であり、そのような経緯がよくわからないまま最初から訳して、後で見直さなかっただけだと思います。3文目の主語が汽車に変わって、急に列車に対する客観的な記載になったことも、1文目の主語が汽車であると勘違いさせる要因になっていると思います。また、「雪国であった」というところは、I found that~のような心情が含まれていると思うのですが、そこも訳者はつかみ切っていないと思います。

Just having passed through the border tunnel, unexpectedly I found a snow country. (ネイティブが見たらどう思うか分か

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

日本人からみると、最初の文の主語が私であることは明らかですし、この小説は最後まで第一人称的な書き方であることからして、列車がトンネルを抜ける様子を客観的に描写しているものでないことは明らかだと思います。訳者はあまり細かく考えていないと思います。小説の冒頭であり、そのような経緯がよくわからないまま最初から訳して、後で見直さなかっただけだと思います。3文目の主語が汽車に変わって、急に列車に対する客観的な記載になったことも、1文目の主語が汽車であると勘違いさせる要因になっていると思います。また、「雪国であった」というところは、I found that~のような心情が含まれていると思うのですが、そこも訳者はつかみ切っていないと思います。

Just having passed through the border tunnel, unexpectedly I found a snow country. (ネイティブが見たらどう思うか分かりませんが、こんな感じでどうでしょう。)

そこは雪国であった というところに、若干の意外性があり、unexpectedly I foundとしました。また、意外性を表すためにはtheよりもaの方がいいのではないかと思います。redundantかな。

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同じとは言えないと思います。特に西洋言語→日本語のように、言語特性や文化社会背景の違う言語間では、一見内容は同じに見えても、視点の位置が違う為にその作品から見える風景が全く異なることは多いと思います。

翻訳本には、原作者名と共に翻訳者の名前が書かれていますが、中には「翻訳者」ではなく、「意訳者」「模作者」「創作者」とでも書いた方が良いものも多いのは事実だと思います。

どこまでの振れ幅を「翻訳」と呼ぶのかに関しては色々な議論がありますし、文学作品などは、描写を完全に他の言語に置き換えることは不可能な場合も多いと思いますが、私が気になるのは、「原作に忠実に訳そうとは最初からしていない」ものです。

ちょっと例を挙げて見ます。(タイトルでの比較になりますが、内容も連動していると考えてよいと思います)

①視点真逆編

これは、日本語→英語というパターンです。

日本語の原作は「もう~ない」ですが、これが英語版(原作者ご本人が英語にしたようです)では、「まだ~している」と真逆になっています。表紙の絵も違いますね。

内容もかなり違っています。おそらく子と親の関係という文化背景が影響して、日本語版にはある内容を英語版では削っていると私は察しています。

英語原作は、「まちがいの本」ですが、日本語に訳された時、「まちがいなんてないよ」になってしまいました。

② 主観入れ替え編

英語原作タイトルでは“Best”のみですが、日本

同じとは言えないと思います。特に西洋言語→日本語のように、言語特性や文化社会背景の違う言語間では、一見内容は同じに見えても、視点の位置が違う為にその作品から見える風景が全く異なることは多いと思います。

翻訳本には、原作者名と共に翻訳者の名前が書かれていますが、中には「翻訳者」ではなく、「意訳者」「模作者」「創作者」とでも書いた方が良いものも多いのは事実だと思います。

どこまでの振れ幅を「翻訳」と呼ぶのかに関しては色々な議論がありますし、文学作品などは、描写を完全に他の言語に置き換えることは不可能な場合も多いと思いますが、私が気になるのは、「原作に忠実に訳そうとは最初からしていない」ものです。

ちょっと例を挙げて見ます。(タイトルでの比較になりますが、内容も連動していると考えてよいと思います)

①視点真逆編

これは、日本語→英語というパターンです。

日本語の原作は「もう~ない」ですが、これが英語版(原作者ご本人が英語にしたようです)では、「まだ~している」と真逆になっています。表紙の絵も違いますね。

内容もかなり違っています。おそらく子と親の関係という文化背景が影響して、日本語版にはある内容を英語版では削っていると私は察しています。

英語原作は、「まちがいの本」ですが、日本語に訳された時、「まちがいなんてないよ」になってしまいました。

② 主観入れ替え編

英語原作タイトルでは“Best”のみですが、日本語になると「世界」規模になりました。

有名なRainbow Fishシリーズ。英原題は、“You Can't Win Them All.” 日本語では「まけるのも だいじだよ」となりました。訳者の谷川俊太郎さんがどうしてこのような日本語題にしたのかをインタビューで答えていらっしゃいましたが、日本人の価値観と合うように。。。との解説だったと記憶しています。

③ 大人の都合編

英語原作は「クレヨンが(クレヨンであることを)やめた日」というタイトルで、クレヨンが不満いっぱいにストライキを起こす内容ですが、日本語版では、「お願い」と腰を低くしています。

ちなみにこの絵本は英語→フランス語、スペイン語、韓国語、中国語にも訳されていますが、いずれも「反乱」「ストライキ」「怒っている」などと、英語原作と似たようなトーンを保っているので日本語版は異質だと思います。

こちらは敏腕フォトジャーナリストによる素晴らしい作品です。巨大食品産業やグローバリズムに一石を投じたものなので、英語原作のレビューを読むと、「挑発的(だが美しい)」という類のコメントが並びます。

しかし日本語版は、「食卓」「食べること」にフォーカスして、問題からうまく目をそらしているようにも見えます。読む人はいないだろう、という前提で、日本語タイトルの背景に半透明で「HUNGRY PLANET」と忍ばせたデザインが、なんとも。。。

日本語と英語のレビューを比較すると、果たして本当に同じ本を読んだ感想なのだろうか?と疑いたくなります。

私はできるだけ、多言語間で比較するようにしています(主要言語に限定はされます)が、例えば英語の原作が多言語に翻訳されて各国で発売された場合、もしかして日本が一番タイトルや内容を「大人の都合」で変えている可能性が高いのでは?と感じています。

当初は、中国や韓国の方がその傾向が強いのではないか?と予測していたのですが、その予測は私の中では崩れました。

④番外編

上記で紹介した、ヨシタケシンスケさんの「もうぬげない」より。

日本語原作はイタリア語版と同じイラストが使用されています。他言語に翻訳された絵本では、こういう違いを見つけるのも喜びです^^

写真出典:Amazon jp

稲元 章博さんのプロフィール写真

国境はコッキョウです。

作者の川端康成は、武田勝彦との対談で、川端が「上越国境とか信越国境とかいいますけどね。国境(こっきょう)と読んでいるでしょうね、みんな」と発言、武田が「いや、でもあれは国境(くにざかい)のほうが……読む方も多いと思います」と応じ、川端は「そうですかしら」と返事しています。 ※國文學 1970年2月号「座談会 川端康成氏に聞く」

なお、川端康成の「雪国」は、新感覚派の名文ですので、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」と言う具合に、出来るだけ長く文章を引用して欲しいものです。

このトンネルは、上越線の群馬県と新潟県の間にある清水トンネルであり、このトンネルのこちら側と向こう側では今も昔も景色が変わります。

この長い長いトンネルを通り抜けて新潟県に入ると、本当に風景が一変し、群馬県側と違って、冬になるとあたり一面が雪化粧に覆われて、雪が降り積もった雪国の景色に変わります。

この風景が一変するサプライズが、冒頭の表現のベースになっています。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という一文ですが、トンネルは闇の世界であり、黒の世界。 雪国は真っ白い世界。 つまり、黒と白の対比であり、黒の世界から白の世界へ移動してきたことを示します。

「夜の底が白くなった。」も同様で、夜というのは暗い夜空のことであり、黒の世界のイメージ

国境はコッキョウです。

作者の川端康成は、武田勝彦との対談で、川端が「上越国境とか信越国境とかいいますけどね。国境(こっきょう)と読んでいるでしょうね、みんな」と発言、武田が「いや、でもあれは国境(くにざかい)のほうが……読む方も多いと思います」と応じ、川端は「そうですかしら」と返事しています。 ※國文學 1970年2月号「座談会 川端康成氏に聞く」

なお、川端康成の「雪国」は、新感覚派の名文ですので、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」と言う具合に、出来るだけ長く文章を引用して欲しいものです。

このトンネルは、上越線の群馬県と新潟県の間にある清水トンネルであり、このトンネルのこちら側と向こう側では今も昔も景色が変わります。

この長い長いトンネルを通り抜けて新潟県に入ると、本当に風景が一変し、群馬県側と違って、冬になるとあたり一面が雪化粧に覆われて、雪が降り積もった雪国の景色に変わります。

この風景が一変するサプライズが、冒頭の表現のベースになっています。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という一文ですが、トンネルは闇の世界であり、黒の世界。 雪国は真っ白い世界。 つまり、黒と白の対比であり、黒の世界から白の世界へ移動してきたことを示します。

「夜の底が白くなった。」も同様で、夜というのは暗い夜空のことであり、黒の世界のイメージ。 夜の底とは地面のことで、降り積もった雪で覆われた雪国であり、白の世界のイメージ。

夜なのに白い、つまり、ほのかに明るい、ということで、幻想的なイメージを描いており、まるで、トンネルをくぐって、この世からあの世へ行ったような幽玄な世界のようです。

冒頭では、しつこいくらいに黒と白のコントラストを印象づけています。 しかも、雪国の白さを際立たせるために、わざわざ、トンネルの闇と夜空の闇と違う種類の黒を使って、描写しています。

そこに、「信号所に汽車が止まった。」と言う現実的な文章が続くことで、一挙に現世に引き戻されたような印象を与えます。

この調子で丁寧に、一文、一文を読み解いていくと、川端康成がいかに文章表現を工夫して「雪国」を執筆したかがわかると思います。

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お確かめください。サイデンステッカーの訳です。

Snow Country
Snow Country 著者: Yasunari Kawabata

無理のない英語に訳すとすればこんなものなのかと思います。それを「かなり違う」とみるかどうかは微妙な話でしょう。

原文:国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
英訳:The train came out of the long tunnel in to the snow country.
英訳の直訳逆和訳:その汽車は長いトンネルからその雪国に出てきた。

問題点1:英語の文章には主語が必要なので、原文には無い主語「その汽車The train」が補われている。

問題点2:英語はaとtheの使い分けをはっきりさせる必要があるので「雪国snow country」に「そのthe」が補われている。ここで"a"にしてしまうと「ある雪国a snow country」になってしまいます。主人公は目的を持って、つまり豪雪地帯に向かうことは分かっていて列車に乗っていた筈なので(物語ではそういう設定なので)"a snow coutry"とはせずに"the snow country"としたのでしょう。しかし、原文の持つ「トンネルを抜け出ると風景が一変した」というニュアンスはこれで失われます。"the snow country"では語り手と読者に共有された「その雪国」というものが前提にされてしまいま

お確かめください。サイデンステッカーの訳です。

Snow Country
Snow Country 著者: Yasunari Kawabata

無理のない英語に訳すとすればこんなものなのかと思います。それを「かなり違う」とみるかどうかは微妙な話でしょう。

原文:国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
英訳:The train came out of the long tunnel in to the snow country.
英訳の直訳逆和訳:その汽車は長いトンネルからその雪国に出てきた。

問題点1:英語の文章には主語が必要なので、原文には無い主語「その汽車The train」が補われている。

問題点2:英語はaとtheの使い分けをはっきりさせる必要があるので「雪国snow country」に「そのthe」が補われている。ここで"a"にしてしまうと「ある雪国a snow country」になってしまいます。主人公は目的を持って、つまり豪雪地帯に向かうことは分かっていて列車に乗っていた筈なので(物語ではそういう設定なので)"a snow coutry"とはせずに"the snow country"としたのでしょう。しかし、原文の持つ「トンネルを抜け出ると風景が一変した」というニュアンスはこれで失われます。"the snow country"では語り手と読者に共有された「その雪国」というものが前提にされてしまいます。

問題点3:「国境の」が省かれている。理由は分かりませんが、おそらく英文のリズムが乱れることを嫌ったものと思われます。

とまあ、いろいろと書き連ねることは可能なんですが、別言語に翻訳すると言う困難を考えると、こんなものなのかとも思います。

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ヤーサンアリ・クワバッタ著のスノーカントリーは文学史に残る傑作です。と清水義範は「江勢物語」で書いています。一読すると、スッキリすると思いますのでお勧めしておきます。

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翻訳の際「かなり違う」というのは、わたしにとっては

・原作に登場しない翻訳オリジナルの別な人物やステージが登場し、翻訳オリジナル作品のようなことをしだす。(例.駒子とその友達が、NewYorkの島村宅に乗り込んできて、島村をボコボコにし財産を分捕る、等)

ですので、「本当ではありません」に該当するのではないでしょうか?

「英訳されて出版された」というのはサイデンステッカー氏の作品の事だと思いますが、原作を尊重しながらも、英語話者にとって最低限理解できる様に修正しているというのが正しいと思います。日本語圏以外の海外の方にとっては、あの作品こそが「Snow Country」(雪国)です。だから「国境の長いトンネルを…」というのは海外の方の頭には一遍も無いんですね。当然ですが、ノーベル賞の選考基準となったのもサイデンステッカー氏が翻訳した作品を選考委員は読んで判断しています。

尚私は「雪国」の良さが理解できておらず、高校生、社会人なりたて、40代過ぎてからと3回挑戦しましたが、いつも50頁ぐらいでつまらなく感じ読むのを断念しています。

参考までに、川端がノーベル賞を受賞する際に功績のあった2名の人物を紹介して終わりたいと思います。

■エドワード・G・サイデンステッカー

(Wikipediaより引用)

英訳された『雪国』などにより、日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端は、日本語で書いた自作が世界で読まれ

翻訳の際「かなり違う」というのは、わたしにとっては

・原作に登場しない翻訳オリジナルの別な人物やステージが登場し、翻訳オリジナル作品のようなことをしだす。(例.駒子とその友達が、NewYorkの島村宅に乗り込んできて、島村をボコボコにし財産を分捕る、等)

ですので、「本当ではありません」に該当するのではないでしょうか?

「英訳されて出版された」というのはサイデンステッカー氏の作品の事だと思いますが、原作を尊重しながらも、英語話者にとって最低限理解できる様に修正しているというのが正しいと思います。日本語圏以外の海外の方にとっては、あの作品こそが「Snow Country」(雪国)です。だから「国境の長いトンネルを…」というのは海外の方の頭には一遍も無いんですね。当然ですが、ノーベル賞の選考基準となったのもサイデンステッカー氏が翻訳した作品を選考委員は読んで判断しています。

尚私は「雪国」の良さが理解できておらず、高校生、社会人なりたて、40代過ぎてからと3回挑戦しましたが、いつも50頁ぐらいでつまらなく感じ読むのを断念しています。

参考までに、川端がノーベル賞を受賞する際に功績のあった2名の人物を紹介して終わりたいと思います。

■エドワード・G・サイデンステッカー

(Wikipediaより引用)

英訳された『雪国』などにより、日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端は、日本語で書いた自作が世界で読まれ評価されたのは訳者であるサイデンステッカーの貢献が大きいとし、「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と賞金を半分渡している。

■ドナルド・キーン

(Wikipediaより引用)

ノーベル財団が公開したノーベル文学賞の選考資料(1960年代)においては、エドワード・G・サイデンステッカーとともに日本人文学者の選考に当たって参考意見を求められていたことが明らかになっている[83]。1963年に選考委員会から依頼を受けたキーンは、挙げられた候補者(川端康成三島由紀夫谷崎潤一郎西脇順三郎)の中で、谷崎を受賞の最有力候補とし、川端については「谷崎ほどの存在感はないが、川端が受賞したとしても日本の一般市民は受け入れるだろう」と回答した。そして三島については、日本社会の年功序列にも配慮して、当時の日本文壇では一番抜きん出ているとしながらも「谷崎や川端が、もし三島に先を越されたら、日本の一般市民は奇妙に感じるだろう」とした。

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内容の翻訳はその翻訳者のスタイルによりますが、タイトルや表紙は出版社の意図が入るので、日本の場合はだいぶ変わることがあるようです。

一冊の本が他言語に翻訳される場合もたくさんありますが、日本語に翻訳され日本で販売される際は、その本の良さをそのまま伝えたいというよりは、どんなタイトルだったら買ってもらえるかに重きを置く傾向は強いと思います。

つまり、日本の出版社は「このタイトルをそのまま訳しても日本では売れないよな」と判断すると、思い切ってタイトルを創作する傾向は他の国よりも強いと言えます。絵本の翻訳でもよく似たようなことが起きます。「日本語に直訳しても意味が通じないから」ではなく、「広く売れるかどうか」により創作するというのがポイントです。

分かりやすい例だと、『ずっとやりたかったことを、やりなさい』(ジュリア キャメロン著 原作英語)というタイトルで日本で売られているロングセラー本の原題は、The artist's way ですね。

他の言語に翻訳されたのは以下のような感じです。(上段左上から、英語の原作、イタリア語、ポーランド語、中国語、下段左から、スペイン語、ポルトガル語、韓国語、日本語)

※バージョンがいくつかあるようなので完全一致していない場合もあるかもしれませんが、基本は、The artist's way の○○語版とされてるものです

他の国では、英語を自分たちの言語に置き換える形

内容の翻訳はその翻訳者のスタイルによりますが、タイトルや表紙は出版社の意図が入るので、日本の場合はだいぶ変わることがあるようです。

一冊の本が他言語に翻訳される場合もたくさんありますが、日本語に翻訳され日本で販売される際は、その本の良さをそのまま伝えたいというよりは、どんなタイトルだったら買ってもらえるかに重きを置く傾向は強いと思います。

つまり、日本の出版社は「このタイトルをそのまま訳しても日本では売れないよな」と判断すると、思い切ってタイトルを創作する傾向は他の国よりも強いと言えます。絵本の翻訳でもよく似たようなことが起きます。「日本語に直訳しても意味が通じないから」ではなく、「広く売れるかどうか」により創作するというのがポイントです。

分かりやすい例だと、『ずっとやりたかったことを、やりなさい』(ジュリア キャメロン著 原作英語)というタイトルで日本で売られているロングセラー本の原題は、The artist's way ですね。

他の言語に翻訳されたのは以下のような感じです。(上段左上から、英語の原作、イタリア語、ポーランド語、中国語、下段左から、スペイン語、ポルトガル語、韓国語、日本語)

※バージョンがいくつかあるようなので完全一致していない場合もあるかもしれませんが、基本は、The artist's way の○○語版とされてるものです

他の国では、英語を自分たちの言語に置き換える形でタイトルにしていますが、日本語だけが異色です。

日本語にできない英語だったのかというとそういうことはなく、例えば、ポーランド語版のタイトルをさらに日本語にしてみると、『アーティストの道 あなたの中のクリエイターを解き放つ方法』(DeepL訳)と、とても自然な日本語にできます。(ただ、これだと日本では売れないんですね~(^^;。それはなぜか、を考えてみる価値はあると思います)

日本語の書籍のタイトルの特徴は超具体であることと、「~しなさい」という直接指示スタイルですね。逆に、この日本語版のタイトルをまた英訳したらどうなるかというと、おそらく、とても英語圏では売ることができない印象になると思います。

このような「具体」タイトルは「結論」と解釈すると聞こえはいいのですが、「あなたが考えなくてもいいように答えをあげるね」的な取り方もできると思います。

「~しなさい」スタイルも、具体的指示であり、日本人には受け入れやすいのだと思います^^やはり私たちはそうやって育って切るのかな~と、ちょっと考えさせられます。

ご質問は「読んだ時の印象」という事ですが、この例の様に、原題とは全く違うタイトルで読み始めると、「前提」が変わるので、ずいぶんと違うものとして読み進めることになるんじゃないかな~と思います。

吉野 斉志さんのプロフィール写真

まず問題は、「逆に言うと、100年前の日本人はみんなすぐにピンと来たのか」です。

ものすごく簡単な話、誰もが雪国の風景に馴染みがあるわけでも、芸者を知っているわけでもないでしょう。

川端は描かれている文化によく馴染んでいる読者のためだけに書いたのでしょうか?

さらに川端康成がノーベル文学賞を受賞したのは、英語やスウェーデン語に翻訳されて、ノーベル賞委員会に知られる存在になったからです。西洋の読者たちはどれだけ背景となる日本文化を知っていたのでしょうか。

「よく知らない世界を描かれているのに興味を感じ、想像を膨らませたり、場合によっては作品外で調べたりする」のも文学を「読む」楽しみの内であろうと思います。背景を共有していて深く考えずともピンとくるものだけが「読める」というのも、寂しいことでしょう。

むしろ、作者や同時代の読者にとってさえすでに身近ではなかったものを描く作品こそ、異なる文化圏や時代の読者にとっても、誰にとっても「遠い」がゆえに、かえって普遍的に読まれたりします。

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沢山有りますが,たとえば,

・「蓮華寺では下宿を兼ねた。」(藤村「破戒」)

当時の有力な編集者に反感を感じさせたそうです。今でも,これから何が起きるのか興味をそそられる簡潔な出だしですが,リズムある美文を旨とする硯友社全盛の当時は,今よりもはるかに新鮮に響いたのでしょう。

・「永いあいだ,私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。」(三島由紀夫「仮面の告白」)

「失われた時を求めて」の出だしを踏まえて捻っており,プルーストと違って,非現実の真実をつよく主張する三島の生涯の立場を端的に示しています。

「失われた時を求めて」の出だしは,それ自体は,さほど印象的ではなく,最後まで読んで得心するという渋いものです。「長いあいだに,私は早くから寝るようになった。」

・「僕は20歳だった。それが人生で一番美しい齢であるとは誰にも言わせない。」(ポール・ニザン「アデン・アラビア」)

20歳の時,これを読み,その押しつけがましい言い方に耐え難い反感を覚えつつ,真実であることを認めなければなりませんでした。今も,同じです。

・「幸福な家庭はどれも似たようなものだが,不幸な家庭はそれぞれに不幸である。」(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)

人生経験を積んでよく吟味すると,前段は,厳密には虚偽であり,家庭の幸福も家庭ごとに千差万別と思いますが,この一文の強力な説得性は今でも,ある魔術的な力を(私に)及

沢山有りますが,たとえば,

・「蓮華寺では下宿を兼ねた。」(藤村「破戒」)

当時の有力な編集者に反感を感じさせたそうです。今でも,これから何が起きるのか興味をそそられる簡潔な出だしですが,リズムある美文を旨とする硯友社全盛の当時は,今よりもはるかに新鮮に響いたのでしょう。

・「永いあいだ,私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。」(三島由紀夫「仮面の告白」)

「失われた時を求めて」の出だしを踏まえて捻っており,プルーストと違って,非現実の真実をつよく主張する三島の生涯の立場を端的に示しています。

「失われた時を求めて」の出だしは,それ自体は,さほど印象的ではなく,最後まで読んで得心するという渋いものです。「長いあいだに,私は早くから寝るようになった。」

・「僕は20歳だった。それが人生で一番美しい齢であるとは誰にも言わせない。」(ポール・ニザン「アデン・アラビア」)

20歳の時,これを読み,その押しつけがましい言い方に耐え難い反感を覚えつつ,真実であることを認めなければなりませんでした。今も,同じです。

・「幸福な家庭はどれも似たようなものだが,不幸な家庭はそれぞれに不幸である。」(トルストイ「アンナ・カレーニナ」)

人生経験を積んでよく吟味すると,前段は,厳密には虚偽であり,家庭の幸福も家庭ごとに千差万別と思いますが,この一文の強力な説得性は今でも,ある魔術的な力を(私に)及ぼします。その力と戦うことが必要と信じる所以です。

熊谷 博さんのプロフィール写真

山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした

(志賀直哉『城の崎にて』)

山手線の電車にはねられてケガで済んだんか〜い(笑)

ちなみにこれは作者の志賀直哉の実話で、本当に芝浦あたりというから田町駅のあたりで山手線の電車にはねられたそうです。不死身か、志賀直哉!!

山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした

(志賀直哉『城の崎にて』)

山手線の電車にはねられてケガで済んだんか〜い(笑)

ちなみにこれは作者の志賀直哉の実話で、本当に芝浦あたりというから田町駅のあたりで山手線の電車にはねられたそうです。不死身か、志賀直哉!!

Shiro Kawaiさんのプロフィール写真

おかしくないんですよ。(ただ、テストの問題は採点しないとならないので変に作為的になってることはあります。それについては後述します)

国語としてやってることは「テクストの読解」です。これは与えられたテクストを材料にしてその上に「解釈」を構築することです。論説文ならともかく、文芸的な作品では解釈に唯一の正解はありません。作者が考えていたことだけが正解ではありません。実際、古典戯曲が現代でも繰り返し上演されるのは、古典のテクストに新たな解釈を立ててみせて、それが新鮮だからです。優れた作品であるほど、様々な解釈を許す深さがあると言えます。

ただし、正解がひとつではないからといって、「自分はこう解釈しました」と言えば何でもok、というわけではありません。テクストの別の部分と矛盾が生じたり、作中の描写の多くが意味の無いものになってしまうような解釈はダメです。ちゃんと作られた作品というのは複雑な建築物のようにあちこちがうまく組み合わさってお互いを支えていて、そうそう勝手な解釈はできないようになっています。それにうまく嵌るような斬新な解釈を与えられたら、それはむしろ賞賛されるべきことです。

さて、正解はひとつではないとはいえ、作者が考えていたことは少なくとも正解の一つであるべきでは、というのは真っ当な疑問です。作品全体を読ませて、自由な形式で答えさせる設問であれば、作者本人の解釈を間違いとするのはおかし

おかしくないんですよ。(ただ、テストの問題は採点しないとならないので変に作為的になってることはあります。それについては後述します)

国語としてやってることは「テクストの読解」です。これは与えられたテクストを材料にしてその上に「解釈」を構築することです。論説文ならともかく、文芸的な作品では解釈に唯一の正解はありません。作者が考えていたことだけが正解ではありません。実際、古典戯曲が現代でも繰り返し上演されるのは、古典のテクストに新たな解釈を立ててみせて、それが新鮮だからです。優れた作品であるほど、様々な解釈を許す深さがあると言えます。

ただし、正解がひとつではないからといって、「自分はこう解釈しました」と言えば何でもok、というわけではありません。テクストの別の部分と矛盾が生じたり、作中の描写の多くが意味の無いものになってしまうような解釈はダメです。ちゃんと作られた作品というのは複雑な建築物のようにあちこちがうまく組み合わさってお互いを支えていて、そうそう勝手な解釈はできないようになっています。それにうまく嵌るような斬新な解釈を与えられたら、それはむしろ賞賛されるべきことです。

さて、正解はひとつではないとはいえ、作者が考えていたことは少なくとも正解の一つであるべきでは、というのは真っ当な疑問です。作品全体を読ませて、自由な形式で答えさせる設問であれば、作者本人の解釈を間違いとするのはおかしいでしょう。ただ、通常の試験では作品全体を読ませている時間もなければ、自由形式の回答を採点するリソースもありません。そこで出題者が、作為的に可能な回答を絞り込めるような設問を作ります。特に、作品の一部を抜き出して答えさせる問題の場合、抜き出された文章だけを根拠にして回答しようとしたらだいたい一種類に決まる、ように設問が誘導的になっています。

作者はなまじ作品全体やその書かれた背景まで知っているので、その絞り込まれた回答ではなく全体を知った上での回答を書いてしまうことがあるでしょう。それは「以下の文章を読んで問いに答えよ」という設問の回答としては書き過ぎ、ということになってしまいます。

もっとも、そういった誘導的な設問や作品の切り取りは本来のテクスト解釈からすれば邪道と言えなくもないです。できれば、全部読ませて解釈をレポートにして、それをみんなで批判的に議論して鍛え上げてゆく、という過程を取るのが理想ですし、そっちの方がおもしろいです。ただそれをやるには少人数クラスで一作品つづにそこそこ時間をかけないとならず、日本のカリキュラムの作り方では難しいのだと思います。

高見温さんのプロフィール写真

いや、十分に珍しかったですよ。高等学校か帝大を出るエリートはまず少ないですが、基本的にいいところのお坊ちゃんです。しかし彼らは官僚やら博士とかになっていきました。本当にプラーっとしていたのはごくわずかであり、明らかに「問題のある人」でした。

ではなぜ日本の近代文学に高等遊民が多いかというと、答えは単純です。その方が小説が書きやすいからです。職業人を書く場合その職業の取材も必要ですし、何より登場人物の世界や行動の動機、心理などがその職業の世界に限定されてしまいます。つまり書くのに制約が多いのです。漁師が日本国の破滅を憂いたり、とは書けませんから。

しかし高等遊民はエリートでありながら「特に何もしていません」これは良質かつ真っ白なキャンバス的設定です。ずっと悶々としていても、ふらっと温泉宿や芝居に行っても、急に色恋をしかけても、何をしても違和感がないじゃないですか。金はあって暇ですし。また心理描写の際に古今の賢人の言葉を引用したり、饒舌に自分の思想を述べるのも、この設定なら共感できます。頭がいいことになっていますので。

結論、近代小説を書くフォーマットとして多用されただけで、高等遊民は珍しかったのが事実です。この傾向はフランスやロシア文学でも当てはまるので、普遍的なシステムだと思われます。

Eiji Takano(高野 英二)さんのプロフィール写真

そもそもフランス語版の原題は'Le Pont de la rivière Kwaï’『クワイ川の橋』であり、「クワイ川の上にかかっている橋」という表現は使われていませんでした。ですから、"over"を使った英語翻訳、および"on"を使ったイギリス映画はいずれも(原題とは無関係に)第三者の好みで選ばれたことになります。

英語で「川にかかる橋」は通常次のものが使われるようです。

above the river
across the river
on the river
over the river

色々なサイトを経巡ってみましたが、結論を云えばこれらはどれも間違いではないものの、最も自然に使われ受け止められるのは"over"のようです。

なぜ"over"なのか?あるQuoranはMatt Dunn's answer to There is a bridge over/above the river. Should it be over or above? Does over hold the meaning of vertical, while above does not? という回答において、「overだと川の上にするすると伸びている橋というイメージが湧くが、他の言葉は静止したイメージである」と述べています。これが英語話者全体に共通する感覚かどうかは不明ですが、なんとなく納得出来ます。

確か

そもそもフランス語版の原題は'Le Pont de la rivière Kwaï’『クワイ川の橋』であり、「クワイ川の上にかかっている橋」という表現は使われていませんでした。ですから、"over"を使った英語翻訳、および"on"を使ったイギリス映画はいずれも(原題とは無関係に)第三者の好みで選ばれたことになります。

英語で「川にかかる橋」は通常次のものが使われるようです。

above the river
across the river
on the river
over the river

色々なサイトを経巡ってみましたが、結論を云えばこれらはどれも間違いではないものの、最も自然に使われ受け止められるのは"over"のようです。

なぜ"over"なのか?あるQuoranはMatt Dunn's answer to There is a bridge over/above the river. Should it be over or above? Does over hold the meaning of vertical, while above does not? という回答において、「overだと川の上にするすると伸びている橋というイメージが湧くが、他の言葉は静止したイメージである」と述べています。これが英語話者全体に共通する感覚かどうかは不明ですが、なんとなく納得出来ます。

確かに、"on"は既に出来上がってデンと据わっている橋を想起させます。小説や映画のように少しずつ伸びて行き、遂に完成される橋には"over"の方が相応しい気がします。

Jun Mukaiさんのプロフィール写真

いや、必ずしもそうとも限らないです。読者の言語能力によります。

たしかに翻訳というものは、ときとしてものすごい改変を含むものです。そうでなくても、この訳者の作品がまたこういうテイストなのは、そういう作品ばかり好んで訳しているからか、それともそういうテイストがにじみ出てしまうのかわからなくなってしまうときもある。

でもその言語の理解力が低いと、原文で読んだとしてもけっきょく細部まで理解できなかったり、ときとしてとんでもない誤読をしてしまうことがあります。誤読でないにしても、理解度の解像度が著しく低く、細かいディティールを読み落としてしまったりすることはほんとうによくあります。

こういうたとえ話を考えてみてください。原書の原文というのが、美しい風景を写した写真だとします。翻訳書はそれを模写した絵画のようなものです。いっぽう外国語の本を原文で読むというのは、すりガラスごしに写真を眺めているようなものです。全体がすべてぼやけていて、ディティールはわからなくなってしまっています。それよりは、妙なタッチが入っていても細かいディティールや見どころをみごとに模写してくれる絵のほうが、深く理解するには向いているかもしれません。同じように、優れた翻訳のほうがより深い理解をもたらすことは往々にしてあります。

その言語を時間をかけて学んでいけば、やがてこの「すりガラス」のぼやけは少なくなってきます(ゼロにはできな

いや、必ずしもそうとも限らないです。読者の言語能力によります。

たしかに翻訳というものは、ときとしてものすごい改変を含むものです。そうでなくても、この訳者の作品がまたこういうテイストなのは、そういう作品ばかり好んで訳しているからか、それともそういうテイストがにじみ出てしまうのかわからなくなってしまうときもある。

でもその言語の理解力が低いと、原文で読んだとしてもけっきょく細部まで理解できなかったり、ときとしてとんでもない誤読をしてしまうことがあります。誤読でないにしても、理解度の解像度が著しく低く、細かいディティールを読み落としてしまったりすることはほんとうによくあります。

こういうたとえ話を考えてみてください。原書の原文というのが、美しい風景を写した写真だとします。翻訳書はそれを模写した絵画のようなものです。いっぽう外国語の本を原文で読むというのは、すりガラスごしに写真を眺めているようなものです。全体がすべてぼやけていて、ディティールはわからなくなってしまっています。それよりは、妙なタッチが入っていても細かいディティールや見どころをみごとに模写してくれる絵のほうが、深く理解するには向いているかもしれません。同じように、優れた翻訳のほうがより深い理解をもたらすことは往々にしてあります。

その言語を時間をかけて学んでいけば、やがてこの「すりガラス」のぼやけは少なくなってきます(ゼロにはできないと思う)。そうしていけば原文で読んだほうがいいというふうになるときは来るでしょう。でもそれには時間がかかります。そうなるまで勉強するべきか? というのは人によりますが、一般にはその価値はあると思います。ただいずれにせよ、そうなるまでは、翻訳のほうがいいときだっていっぱいあります。

前田せいめいさんのプロフィール写真

文章といえば文語体しかなかったところへ言文一致のまったく新しい文体を創り出そうとした二葉亭四迷は当初、まずロシア語で書いて、それを日本語に翻訳することで口語体の実現を試みたのだそうです。

二葉亭は現在の東京外国語大学でロシア語を学びましたが、当時は語学の教科書が足りておらず、教師がロシア文学を原語で読み聞かせ、その内容についてロシア語で質問し学生はロシア語で答えるという教授法で、それを通じて 「話しことばで書かれた文章表現」 の自由さに深く傾倒したのが、彼が言文一致へ向かう契機だったようです。

文章=文語体でしかなかった環境でその枠から飛び出すために、一旦その枠にはまらない外国語で書いて、それを邦訳することで枠の外に出ようとしたんですね。

例えば 「一から始める」(昨今は 「ゼロから始める」 とされることが多いようですが)と言うとき、それに相当する 「start from scratch」 に一旦翻訳し、それを再度日本語に直すときに日本語の定形である 「一から始める」 ではなく、「ひっかくことから始める」 と直訳するだけでも、それは慣用句しかなかった文章表現にまったく新しい表現を持ち込むことになるでしょうし、もっと文脈にぴったりはまる表現を探すタネにもなるでしょう。

うまい邦訳はそのように、外国語を日本語に変えるときに、日本語でよく知られている表現にそのまま移すのではなく、もとのことば(外

文章といえば文語体しかなかったところへ言文一致のまったく新しい文体を創り出そうとした二葉亭四迷は当初、まずロシア語で書いて、それを日本語に翻訳することで口語体の実現を試みたのだそうです。

二葉亭は現在の東京外国語大学でロシア語を学びましたが、当時は語学の教科書が足りておらず、教師がロシア文学を原語で読み聞かせ、その内容についてロシア語で質問し学生はロシア語で答えるという教授法で、それを通じて 「話しことばで書かれた文章表現」 の自由さに深く傾倒したのが、彼が言文一致へ向かう契機だったようです。

文章=文語体でしかなかった環境でその枠から飛び出すために、一旦その枠にはまらない外国語で書いて、それを邦訳することで枠の外に出ようとしたんですね。

例えば 「一から始める」(昨今は 「ゼロから始める」 とされることが多いようですが)と言うとき、それに相当する 「start from scratch」 に一旦翻訳し、それを再度日本語に直すときに日本語の定形である 「一から始める」 ではなく、「ひっかくことから始める」 と直訳するだけでも、それは慣用句しかなかった文章表現にまったく新しい表現を持ち込むことになるでしょうし、もっと文脈にぴったりはまる表現を探すタネにもなるでしょう。

うまい邦訳はそのように、外国語を日本語に変えるときに、日本語でよく知られている表現にそのまま移すのではなく、もとのことば(外国語)と日本語がうまく融合する表現を探し見つけているのではないですか。

そこらへんの創意工夫に、普段見慣れた日本語表現にない斬新さを感じるのだろうと思います。

あまりうまくないひとが日本語の枠内だけでそれをやろうとしているらしい文章は、語彙に無理やり感があったり、くどいと感じることが多いように思います。

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マーサ・ウェルズ『マーダーボット・ダイアリー』

人間が外宇宙に進出して活動している世界で、「マーダーボット(殺人ロボット)」を自称する人型の警備ユニットが主人公のSFなのですが、原作の冒頭はこうです。

I could have become a mass murderer after I hacked my governor module, but then I realized I could access the combined feed of entertainment channels carried on the company satellites. It had been well over 35,000 hours or so since then, with still not much murdering, but probably, I don't know, a little under 35,000 hours of movies, serials, books, plays, and music consumed. As a heartless killing machine, I was a terrible failure.

人間に対しては屈折した感情を抱いていて、連続ドラマなどのメディアに耽溺している引きこもりぎみのロボットという設定です。

これを、翻訳

マーサ・ウェルズ『マーダーボット・ダイアリー』

人間が外宇宙に進出して活動している世界で、「マーダーボット(殺人ロボット)」を自称する人型の警備ユニットが主人公のSFなのですが、原作の冒頭はこうです。

I could have become a mass murderer after I hacked my governor module, but then I realized I could access the combined feed of entertainment channels carried on the company satellites. It had been well over 35,000 hours or so since then, with still not much murdering, but probably, I don't know, a little under 35,000 hours of movies, serials, books, plays, and music consumed. As a heartless killing machine, I was a terrible failure.

人間に対しては屈折した感情を抱いていて、連続ドラマなどのメディアに耽溺している引きこもりぎみのロボットという設定です。

これを、翻訳者の中原尚哉氏はこう訳しました。

統制モジュールをハッキングしたことで、大量殺人ボットになる可能性もありました。しかし直後に、弊社の衛星から流れる娯楽チャンネルの全フィードにアクセスできることに気づきました。以来、三万五千時間あまりが経過しましたが、殺人は犯さず、かわりに映画や連続ドラマや本や演劇や音楽に、たぶん三万五千時間近く耽溺してきました。冷徹な殺人機械のはずなのに、弊機はひどい欠陥品です。

原作だと、一人称は普通に"I"なんですよね。翻訳では一人称は極力省き、キメの部分で「弊機」という一人称を使うことで、丁寧なですます調の口調ともあいまって、なんともいえないおかしみが生まれています。

原作も、ヒューゴー賞やネビュラ賞を受賞している人気シリーズなのですが、翻訳版はさらに優れた翻訳に贈られる日本翻訳大賞も受賞しています。

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リクエストいただきましたが、これは僕にはわかりません。

「over the river」であるべきか「on the river」であるべきかについては、当然どちらも間違いではありませんが、現代英語では「over」が使われることの方が圧倒的に多いと思います。米英の差についてもわかりませんが、それほど変わらないのではと推測します。

Pierre Boulle 原作のフランス語は「Le Pont de la Riviere Kwai」なんですね。意味は「The Bridge of Kwai River」で、単純に「クワイ川の橋」ですね。

それを英語に訳す時に訳者が何を考えて「The Bridge on(over) the River Kwai」と訳したかということだと思います。「on」と「over」は多少ニュアンスが違うとも言えますが、果たしてそのニュアンスにこだわって題名を変えたかはクエスションマークでしょう。
英語では川(河)の名前の多くは定冠詞無しの「Kwai River」という語順になりますが、そこも敢えて「the River Kwai」とフランス語的な語順を取っていますね。イギリス英語の方がフランス語の影響を受けている場合が多いということは多少あるかもしれませんが、究極的には「題名を英訳した人の判断」ということだと思います。「Kwai川」はタイにある川ですから、ある程度(英語圏のオー

リクエストいただきましたが、これは僕にはわかりません。

「over the river」であるべきか「on the river」であるべきかについては、当然どちらも間違いではありませんが、現代英語では「over」が使われることの方が圧倒的に多いと思います。米英の差についてもわかりませんが、それほど変わらないのではと推測します。

Pierre Boulle 原作のフランス語は「Le Pont de la Riviere Kwai」なんですね。意味は「The Bridge of Kwai River」で、単純に「クワイ川の橋」ですね。

それを英語に訳す時に訳者が何を考えて「The Bridge on(over) the River Kwai」と訳したかということだと思います。「on」と「over」は多少ニュアンスが違うとも言えますが、果たしてそのニュアンスにこだわって題名を変えたかはクエスションマークでしょう。
英語では川(河)の名前の多くは定冠詞無しの「Kwai River」という語順になりますが、そこも敢えて「the River Kwai」とフランス語的な語順を取っていますね。イギリス英語の方がフランス語の影響を受けている場合が多いということは多少あるかもしれませんが、究極的には「題名を英訳した人の判断」ということだと思います。「Kwai川」はタイにある川ですから、ある程度(英語圏のオーディエンスに向けて)「エキゾチックなイメージ」を出すために「the River Kwai」にしたのかなぁ、なんて想像したりします。

フランス語の原題に忠実な順に英訳すれば:

The Bridge of the River Kwai > The Bridge on the River Kwai > The Bridge over the River Kwai > The Bridge over Kwai River

で、最後の「The Bridge over Kwai River」がもっとも自然な英語ですが、「題名」ですから「自然な英語」は最優先ではないはずですね。
また原作は日本軍の将校とイギリス軍の捕虜の間の「交流」がテーマでしたね。対立関係にある人間同士の「交流」にはしばしば「bridge over ~」という表現は象徴的ですね。

ちなみに「a bridge over a river」と「a bridge on a river」をフランス語にすればどちらも:

un pont sur la rivière (アン ポン スュール ラ リヴィエール)

で、「on」も「over」も「sur」という同じ前置詞になります。

Shigeyoshi Uedaさんのプロフィール写真

翻訳をしてみればわかります。

背景を共有していな概念を、日本人にわかるように説明するには沢山の言葉が必要です。

それに頼らないと読めない人のための解説文が添えられているのと変わらないのです。

本だとわかりにくいですが、たとえばウッディ・アレンの映画をみて翻訳者レベルですと、にんまりしますが、その面白さをのせて彼の作品を日本語字幕で表現するのはほぼ不可能です。

映画の場合は、文字数が限られるので、似たような逸話話や連想で置き換えてしまって、原義を訳さないこともよくあります。

小説は、文字制限がありませんから、もとの意味を訳した上で、その意味が日本人にもわかるような工夫をすることになります。

これは、訳者の才覚の問題ではなく、

内容をとるか、文体をとるか? のバランスになってきます。

質問者さんや、賛同されている方々の感性は、文体や雰囲気を大事にしてほしいという感じですね。

翻訳をしている人たちは、一番に日本人にわかる日本語にしてイメージを伝えないといけません。そして、日本人は文学を読むなら、統一された文体や語彙の選択を望みます。それらの制約の中で、原文と同じくらい簡潔にしかも韻を踏んでいたり美しい文体を模倣したり、というのは非常に難しいです。===ほぼ不可能ですが、それをなんとかバランスをとって薦めるのが翻訳です。

僕がかなり上手く訳せたなという、訳例を提出しても、英語を母国語としている人は、なぜそんな

翻訳をしてみればわかります。

背景を共有していな概念を、日本人にわかるように説明するには沢山の言葉が必要です。

それに頼らないと読めない人のための解説文が添えられているのと変わらないのです。

本だとわかりにくいですが、たとえばウッディ・アレンの映画をみて翻訳者レベルですと、にんまりしますが、その面白さをのせて彼の作品を日本語字幕で表現するのはほぼ不可能です。

映画の場合は、文字数が限られるので、似たような逸話話や連想で置き換えてしまって、原義を訳さないこともよくあります。

小説は、文字制限がありませんから、もとの意味を訳した上で、その意味が日本人にもわかるような工夫をすることになります。

これは、訳者の才覚の問題ではなく、

内容をとるか、文体をとるか? のバランスになってきます。

質問者さんや、賛同されている方々の感性は、文体や雰囲気を大事にしてほしいという感じですね。

翻訳をしている人たちは、一番に日本人にわかる日本語にしてイメージを伝えないといけません。そして、日本人は文学を読むなら、統一された文体や語彙の選択を望みます。それらの制約の中で、原文と同じくらい簡潔にしかも韻を踏んでいたり美しい文体を模倣したり、というのは非常に難しいです。===ほぼ不可能ですが、それをなんとかバランスをとって薦めるのが翻訳です。

僕がかなり上手く訳せたなという、訳例を提出しても、英語を母国語としている人は、なぜそんな意訳をするのか、と否定的に反応されることが多いです。

僕自身の才覚以上に、チェックをする英語話者サイドに全く融通が効かないとか、良い日本語にした事により彼らにはわかりにくくなることのギャップが認められないことが多いのです。

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私にとって一番気にしなくてはならない書物の一つに「五輪書」があります。これは宮本武蔵が書いたとされているものなのですが、アメリカでもベストセラーになったのですよ。

その中の、一応、英語版とされています、5冊ほど持っていますが、すべて内容が違うのです。然し表紙にはThe Book of Five Rings by Musashi Miyamotoと言う題名になっているのです。

なぜ違うのかと言うと日本語表現の翻訳されている部分が実は作者(アメリカ人)の想いが書かれており武蔵はそんなこと言っていないのですね。言い換えると、武蔵の言葉を「勝手に自分の思想に合わせて」書いているのですね。

よって、多くのサイトでWhich is the best version of the Book of Five Rings?と聞いているのです!

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リクエストありがとうございます。

同僚の外国人アニメ・ライトノベルファン達と語らっていたら、いつの間にかヲタク同好会が出来上がっておりました。

https://youthclip.jp/wotaku-com-jp/

前職でも出来ていたので、歩くヲタク制作委員会と呼ばれています。

現職での参加人数は10名ほどで、旬のアニメの情報交換、イベントやアニソンカラオケの会を開催しています。

たまに幹事を押し付けられがちです。

メンバーは南米、北米、アジア、ヨーロッパ、北欧、東欧。

そんな彼らにこの質問を投げてみました。

Q. 英語圏で人気のある異世界転生小説は、日本作品の翻訳と、現地オリジナル作品のどちらが多いですか?

南米出身のY

ヨーロッパ出身のS

アジア出身のW

Y: ない事もないよ

W: ダントツにほん!にほんのしか読まない!

S: なろう系ほぼWattpadだけどTwilightや50 shades of grayに近いヤツが多い

whattpad

https://gendai.media/articles/-/120691?page=4

ここにきて「中国のウェブ小説」が大注目を浴びていた…国際化するプラットフォームと作品の輸出入のゆくえ(飯田 一史) @moneygendai
昨年2022年に続いて(https://gendai.media/articles/-/103817)、今年もウェブ発小説およびその書籍化の動向に関して追ってみたい。日本に入ってきた海外ウェブ小説から見える、日本の出版業界やコンテンツ業界への示唆とは何か?【前中後編の後編】

Twilight

トワイライト (小説) - Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 この項目では、ステファニー・メイヤーの小説シリーズについて説明しています。重松清の小説「トワイライト」については「 重松清#一般小説 」をご覧ください。 『 トワイライト 』( Twilight )は、 ステファニー・メイヤー 著の ティーン 向け小説シリーズ。 小原亜美 訳、 ゴツボ×リュウジ 絵。原書は全4巻だが翻訳版は全10巻(原書の1冊を数冊に分けて刊行)で、 ヴィレッジブックス より刊行されている。 雨と霧の町、アメリカ ワシントン州 フォークスへ引っ越してきた少女ベラと、そこで彼女が出会った完璧な容姿を持つヴァンパイア・エドワードとの許されない恋を描く。本国 アメリカ では ハリー・ポッターシリーズ に次ぐ大ベストセラーで、10代の少女を中心に絶大な人気を誇る。 17歳のベラは、雨と霧の町フォークスにやってきた。フェニックスで一緒に暮らしていた母親が再婚することになり、離れて暮らしていた父のもとで新しい生活を始めることにしたのだ。人付き合いが苦手なベラは転校のことを考え憂鬱になっていたが、意外なことに転校先の男の子たちはベラの気を引こうとしてくる。そんな中ベラは、一際特別な雰囲気を放つ美青年エドワードに出会う。だが彼はなぜかあからさまにベラを避け、敵意の視線を向けるのだった。初対面の自分になぜそのような敵意を向けるのか理解できないベラだったが、あるときエドワードに命を助けられる。そこでベラは、エドワードの人間離れした力を目撃し、彼の正体を探り始める。 全13巻。なお、単行本のタイトルは日本語版のもの。 1 愛した人はヴァンパイア 2 血は哀しみの味 3 闇の吸血鬼一族 4 牙は甘くささやく 5 狼の月 6 嘆きの堕天使 7 赤い刻印 8 冷たいキスをあたしに 9 黄昏は魔物の時間 トワイライトIII 上巻 トワイライトIII 下巻 10 ヴァンパイアの花嫁 11 夜明けの守護神 12 不滅の子 13 永遠に抱かれて トワイライトIV 上巻 トワイライトIV 下巻 トワイライトIV 最終章 ミッドナイトサン エドワードの物語 原文の第一章は原作者ステファニー・メイヤーのホームページ上に公開されている。それに伴い、日本語訳をヴィレッジブックスのホームページに2007年11月20日から2008年3月30日まで期間限定で公開された。本編のトワイライトが主にベラの視点で描かれているのに対し、ミッドナイトサンではエドワードの視点でベラとの出会いが描かれた。 ベラ・スワン Isabella Swan 本作の主人公。本名はイザベラで、ベラは愛称。 9月13日 生まれ。17歳(2巻で18歳になる)。容姿はダークブラウンの髪にブラウンの瞳で、本人が「血色が悪くて不健康そう」と気にするほど真っ白な肌をしている。身長は160cm、体重は45kg。人付き合いが苦手で友達には入れ込もうとせず、家族とも少し距離を置いている。恋愛には奥手で、エドワードと出会うまではろくにデートもしたことがなかった。成績優秀の文学少女だが運動神経は非常に悪い。愛車は父チャーリーからプレゼントされた中古の赤い ピックアップ 。エドワードの心を読む能力や、幻の苦痛を味わわせる能力などの吸血鬼達の固有の才能が、人間の時から効かない。脳への侵入(ただひとつの例外を除いて)をシールドする能力を持つ。とても美味しそうな香りを放ち、とりわけエドワードの好みにぴったりの香りをしている。 のちに転生しベラ・カレンとなる。 映画では、 クリステン・スチュアート が演じている。 エドワード・カレン Edward Cullen もう一人の主人公。 赤銅色の髪とゴールド( トパーズ 、 はちみつ 、 バタースコッチ などの表現もある)の瞳(喉が渇いているときは黒曜石のようにまっ黒)をした、完璧な容姿を持つ少年。 ベルベット のように甘美な声を持ち、肌は大理石のように白くて冷たい。その正体は ヴァンパイア で、高校生の見た目とは裏腹に100年以上生きている。 1901年 6月20日 生まれ。17歳のときスペイン風邪にかかり、親もスペイン風邪で亡くなり、回復する見込みもなく死にかけていたところでカーライルに救われ、吸血鬼になる。人間の頃の瞳は綺麗なグリーン。転生時の肉体年齢では一番年下のため、カレン家の末っ子ということになっている。人の考えていることが読める能力を持っているが、ベラにだけはその能力が効かないことを知り彼女に興味を持つ。身のこなしがとても素早く優雅で、カレン家では一番の俊足(しかし、彼は速いが強くはない)。音楽の才能があり、ベラの誕生日にはピアノで作曲した子守唄をプレゼントした。愛車はシルバーの ボルボ 。 人間の血を吸わず、動物の血で生きている草食ヴァンパイア。好物はクーガー(ピューマ)。 転生してから10年後、カーライルの生き方である草食ヴァンパイアの道に反発し家出。数年間、そのマインドリーダーとしての能力を活かし、悪人の血のみをターゲットとして暮らす。しかし自分の瞳に化け物の姿がちらついたことで考えを改め、カーライルの元に戻った。 いわくありげな笑顔で(本人は自覚していないが)ベラを含む女性をくらくらさせ、たびたびベラに注意を受ける。 映画では、ロバート・パティンソンが演じている。 ジェイコブ・ブラック Jacob Black ラプッシュ居留地に暮らすキラユーテ族という先住民族の少年。なめらかな赤褐色の肌をしており、瞳と髪の色は黒。実は人狼だということが5巻で明かされる。ベラより2歳年下だが容姿はとても大人びており背が高く、ハスキーな声をしている。ベラは年下で少年らしさの残る彼を弟のように思っていたが、ある日のベラの態度にジェイコブは舞い上がり、好意を持つようになった。車など、機械類の修理が得意で、愛車は自分で直した ゴルフ 。 カーライル・カレン Carlisle Cullen エドワードの義父。優秀な外科医で、厳しい訓練を積んだため血を見ても欲望に囚われることはない。これまで一度も人間の血を飲んだことはないという。髪の色はブロンドで、ベラによると「映画スターのだれよりハンサム」「金髪の天使」。見た目は20代後半~30代くらいだが、本当の年齢は362歳。元は 1640年 代に英国国教会の司祭のひとり息子として生まれ、23歳のとき本物の吸血鬼を追い詰めた時に傷を負い、自分の正体を知られると教会の者たちに殺されると直感し、とある地下室の腐ったジャガイモの中に身を潜め、吸血鬼へと変身した。「バケモノになりたくない」という気持ちから獣の血のみを吸って生きることを決めたが、そのことが他の仲間には理解されず、戸惑いながらも孤独の寂しさから孤児になった瀕死のエドワードを彼の母の遺言に従い救い、吸血鬼にした。愛車は メルセデス・ベンツ 。 アリス・カレン Alice Cullen エドワードの義姉。真っ黒なツンツンのベリーショートで、妖精のように華奢で小柄。ベラによると「全ての動作が踊るように軽やか」。予知能力を使い人の未来を見ることができるが、状況に左右されやすく、またジェイコブなど

50 shades of gray

フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ - Wikipedia
『 Fifty Shades of Grey 』( フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ )は E・L・ジェイムズ による イギリス の 官能小説 。 女子大生の主人公が、若く有能だが サディスト の性的嗜好を持つ大富豪の男性と知り合い、 BDSM ( SM )の主従契約を結ぶという内容の 恋愛小説 で、 主婦 が書いた女性向けのエロティックな小説として「マミー・ポルノ」と呼ばれアメリカでベストセラーとなった。もともとは ステファニー・メイヤー 著の『 トワイライト 』シリーズの ファン・フィクション として書かれたもので、 オンライン小説 として発表され、 2011年 に書籍化されたのち ランダムハウス が版権を買い取った。2015年6月現在、全世界で1億2500万部以上の売上と発表されている。続編に『 フィフティ・シェイズ・ダーカー 』と『 フィフティ・シェイズ・フリード 』がある。日本では 早川書房 より翻訳書が発売された。 [ 1 ] アメリカで映画化され 2015年 に公開された。 アナスタシア・スティール(以下アナ)は ワシントン州立大学 バンクーバー校で英文学を専攻する平凡な女子大学生。 卒業試験を目前に控えたある日、熱を出したルームメイトであり親友のキャサリン・キャヴァナー(以下ケイト)に代わり、学生新聞の記者として シアトル にある大企業グレイ・エンタープライズ・ホールディングスの創始者であり CEO のクリスチャン・グレイ(以下クリスチャン)にインタビューすることになる。インタビューをきっかけにアナは若く魅力的なクリスチャンに惹かれ、クリスチャンもまたアナに関心を持ち始める。 ある日、 ポートランド にあるアナのアルバイト先にクリスチャンが現れる。会話の中でアナは、学生新聞用にケイトがクリスチャンの写真を撮りたがっていることを話す。クリスチャンはそれに快諾し、二人は後日また会うことになる。 後日、アナの友人であり写真家志望のホセ・ロドリゲス(以下ホセ)によって撮影は順調に進んでいく。撮影終了後クリスチャンはアナをコーヒーに誘い、二人はカフェへと向かう。その帰り、危うく自転車に轢かれそうになったアナをクリスチャンが抱き寄せ、二人の距離は近くなる。キスしてほしいと目で訴えるアナだったがクリスチャンに「私は君にふさわしくない」と告げられたことにショックを受け、クリスチャンに別れを告げてその場を立ち去ってしまう。 卒業試験が終わった日にアナとケイトは試験終了を祝ってバーへ飲みに行くことになった。家を出ようとしたその時、クリスチャンからアナへ、アナの好きな トーマス・ハーディ の作品である『 ダーバヴィル家のテス 』の初版本が届く。あまりに高価なものが届き、アナは困惑する。 バーで飲んでいたアナはトイレに並んでいる間にクリスチャンに電話し、なぜ『テス』の初版本を送ってきたのか聞こうとする。クリスチャンはアナの話し方からアナが酔っていると察知し、どこのバーで飲んでいるのかアナを問いただす。しかしアナは電話を切ってしまう。 酔いを覚まそうとアナはバーの外に出ていると、一緒に飲んでいたホセがアナの後を追いかけてくる。以前からアナに好意を寄せていたホセは、アナにキスを迫る。アナがホセを拒もうとするとそこにクリスチャンが現れ、二人を止めに入る。そこであまりに泥酔したアナは嘔吐してしまう。そんなアナをクリスチャンは優しく介抱し、アナの自宅へ送ろうとするがアナは気を失ってしまう。 翌朝、アナは目覚めるとベッドの上にいた。クリスチャンはアナのアルバイト先を訪れたあの日からポートランドにあるヒースマン・ホテルに滞在しており、そこはそのスイートルームの一室だった。酔いが覚めたアナはシャワーを浴び、クリスチャンと一緒に朝食を食べる。ようやく『テス』の初版本を送ってきた理由を聞くアナ。クリスチャンは謝罪と警告の意味を込めて贈ったこと、普通の恋愛には興味がなく一般的な嗜好と異なっていること、そしてアナに特別な何かを感じ惹かれていることを明かし、書面で彼女の同意を得るまでは彼女に触れるつもりはないと言う。アナはその日のアルバイトを終えた後、その契約書を見るためシアトルにあるクリスチャンの自宅へ向かうことを約束する。アナを自宅へと送ろうとするクリスチャンだったが、ヒースマン・ホテルのエレベーターの中で欲望を抑えきれず二人は激しい口付けを交わす。 アルバイトを終えたアナはクリスチャンによるヘリコプターの操縦のもと、シアトルにあるクリスチャンの自宅へと向かう。そこでアナは初めに「秘密保持契約書」にサインをさせられ、今後クリスチャンとアナの間に起こる出来事を他言しないよう約束する。そうしてアナはクリスチャンが「プレイルーム」と呼ぶ部屋へと案内される。そこはベッドやソファの他に、 鞭 や 杖 、 手錠 などが置いてある所謂 SMプレイ が行われるような部屋であった。あまりの衝撃に言葉を無くすアナ。サディストなのかと尋ねるアナにクリスチャンは自らを「支配者」であると明かし、アナに彼の「従属者」になってほしいと言われる。契約の内容は、従属者を守るため、なおかつ支配者が喜ぶために設けられたという規則を従属者が従い、支配者を満足させられれば褒美が与えられ、従わなければ罰が与えられるというものである。その際に行われる 性行為 は愛を交わす「セックス」ではなく、激しい「 ファック 」であるとクリスチャンから伝えられる。その契約内容は性行為に関することだけでなく、従属者の食生活や睡眠、服装、運動など多岐に渡り、従属者の生き方を支配しようとするものだった。クリスチャンはアナに合わせて契約内容は修正可能であると言い、アナと契約を結ぼうとする。しかしアナは恋愛経験がほとんどなく未だ処女であり、契約に関する内容があまり分からないことをクリスチャンに告白する。クリスチャンはアナが処女であるということに衝撃を受け、焦りを隠せない。急遽クリスチャンは予定を変更し、その夜はクリスチャンの寝室で二人はバニラ・セックス(「平凡な小道具を使わない性愛」という意味のクリスチャンによる造語)を楽しむ。 その後アナは、クリスチャンが15歳の時彼の養母の友人が初体験の相手だったこと、そこから6年間はその女性の従属者だったこと、過去15人の女性と支配者対従属者の関係を結んでいたことを明かされる。 二人は契約を結ぶ前に、契約書の内容に就いて加筆修正をしていった。それと同時にアナが取った行動に対してクリスチャンが罰としてアナの尻を叩くなど、少しずつ過激な戯れも行うようになった。アナはクリスチャンの従属者になろうと努力しようとしていた。しかし「同じベッドでは寝ることができない」「クリスチャンの身体に触ることはできない」などの規則がアナを契約する決意から遠ざけていた。それと同時に鞭やクリスチャンの手で叩かれることに快楽を見出し始めるなど、自分自身が過激な戯れを少しずつ楽しむようになっていることに気付き、そんな自分に戸惑う。四歳の時にコカイン代を稼ぐ娼婦だった母親と死別したクリスチャンは自らを「五十通りに歪んだ人格」と称し、そんな彼と接するアナは情緒不安定になっていた。二

北欧出身のT

T: 今

リクエストありがとうございます。

同僚の外国人アニメ・ライトノベルファン達と語らっていたら、いつの間にかヲタク同好会が出来上がっておりました。

https://youthclip.jp/wotaku-com-jp/

前職でも出来ていたので、歩くヲタク制作委員会と呼ばれています。

現職での参加人数は10名ほどで、旬のアニメの情報交換、イベントやアニソンカラオケの会を開催しています。

たまに幹事を押し付けられがちです。

メンバーは南米、北米、アジア、ヨーロッパ、北欧、東欧。

そんな彼らにこの質問を投げてみました。

Q. 英語圏で人気のある異世界転生小説は、日本作品の翻訳と、現地オリジナル作品のどちらが多いですか?

南米出身のY

ヨーロッパ出身のS

アジア出身のW

Y: ない事もないよ

W: ダントツにほん!にほんのしか読まない!

S: なろう系ほぼWattpadだけどTwilightや50 shades of grayに近いヤツが多い

whattpad

https://gendai.media/articles/-/120691?page=4

ここにきて「中国のウェブ小説」が大注目を浴びていた…国際化するプラットフォームと作品の輸出入のゆくえ(飯田 一史) @moneygendai
昨年2022年に続いて(https://gendai.media/articles/-/103817)、今年もウェブ発小説およびその書籍化の動向に関して追ってみたい。日本に入ってきた海外ウェブ小説から見える、日本の出版業界やコンテンツ業界への示唆とは何か?【前中後編の後編】

Twilight

トワイライト (小説) - Wikipedia
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 この項目では、ステファニー・メイヤーの小説シリーズについて説明しています。重松清の小説「トワイライト」については「 重松清#一般小説 」をご覧ください。 『 トワイライト 』( Twilight )は、 ステファニー・メイヤー 著の ティーン 向け小説シリーズ。 小原亜美 訳、 ゴツボ×リュウジ 絵。原書は全4巻だが翻訳版は全10巻(原書の1冊を数冊に分けて刊行)で、 ヴィレッジブックス より刊行されている。 雨と霧の町、アメリカ ワシントン州 フォークスへ引っ越してきた少女ベラと、そこで彼女が出会った完璧な容姿を持つヴァンパイア・エドワードとの許されない恋を描く。本国 アメリカ では ハリー・ポッターシリーズ に次ぐ大ベストセラーで、10代の少女を中心に絶大な人気を誇る。 17歳のベラは、雨と霧の町フォークスにやってきた。フェニックスで一緒に暮らしていた母親が再婚することになり、離れて暮らしていた父のもとで新しい生活を始めることにしたのだ。人付き合いが苦手なベラは転校のことを考え憂鬱になっていたが、意外なことに転校先の男の子たちはベラの気を引こうとしてくる。そんな中ベラは、一際特別な雰囲気を放つ美青年エドワードに出会う。だが彼はなぜかあからさまにベラを避け、敵意の視線を向けるのだった。初対面の自分になぜそのような敵意を向けるのか理解できないベラだったが、あるときエドワードに命を助けられる。そこでベラは、エドワードの人間離れした力を目撃し、彼の正体を探り始める。 全13巻。なお、単行本のタイトルは日本語版のもの。 1 愛した人はヴァンパイア 2 血は哀しみの味 3 闇の吸血鬼一族 4 牙は甘くささやく 5 狼の月 6 嘆きの堕天使 7 赤い刻印 8 冷たいキスをあたしに 9 黄昏は魔物の時間 トワイライトIII 上巻 トワイライトIII 下巻 10 ヴァンパイアの花嫁 11 夜明けの守護神 12 不滅の子 13 永遠に抱かれて トワイライトIV 上巻 トワイライトIV 下巻 トワイライトIV 最終章 ミッドナイトサン エドワードの物語 原文の第一章は原作者ステファニー・メイヤーのホームページ上に公開されている。それに伴い、日本語訳をヴィレッジブックスのホームページに2007年11月20日から2008年3月30日まで期間限定で公開された。本編のトワイライトが主にベラの視点で描かれているのに対し、ミッドナイトサンではエドワードの視点でベラとの出会いが描かれた。 ベラ・スワン Isabella Swan 本作の主人公。本名はイザベラで、ベラは愛称。 9月13日 生まれ。17歳(2巻で18歳になる)。容姿はダークブラウンの髪にブラウンの瞳で、本人が「血色が悪くて不健康そう」と気にするほど真っ白な肌をしている。身長は160cm、体重は45kg。人付き合いが苦手で友達には入れ込もうとせず、家族とも少し距離を置いている。恋愛には奥手で、エドワードと出会うまではろくにデートもしたことがなかった。成績優秀の文学少女だが運動神経は非常に悪い。愛車は父チャーリーからプレゼントされた中古の赤い ピックアップ 。エドワードの心を読む能力や、幻の苦痛を味わわせる能力などの吸血鬼達の固有の才能が、人間の時から効かない。脳への侵入(ただひとつの例外を除いて)をシールドする能力を持つ。とても美味しそうな香りを放ち、とりわけエドワードの好みにぴったりの香りをしている。 のちに転生しベラ・カレンとなる。 映画では、 クリステン・スチュアート が演じている。 エドワード・カレン Edward Cullen もう一人の主人公。 赤銅色の髪とゴールド( トパーズ 、 はちみつ 、 バタースコッチ などの表現もある)の瞳(喉が渇いているときは黒曜石のようにまっ黒)をした、完璧な容姿を持つ少年。 ベルベット のように甘美な声を持ち、肌は大理石のように白くて冷たい。その正体は ヴァンパイア で、高校生の見た目とは裏腹に100年以上生きている。 1901年 6月20日 生まれ。17歳のときスペイン風邪にかかり、親もスペイン風邪で亡くなり、回復する見込みもなく死にかけていたところでカーライルに救われ、吸血鬼になる。人間の頃の瞳は綺麗なグリーン。転生時の肉体年齢では一番年下のため、カレン家の末っ子ということになっている。人の考えていることが読める能力を持っているが、ベラにだけはその能力が効かないことを知り彼女に興味を持つ。身のこなしがとても素早く優雅で、カレン家では一番の俊足(しかし、彼は速いが強くはない)。音楽の才能があり、ベラの誕生日にはピアノで作曲した子守唄をプレゼントした。愛車はシルバーの ボルボ 。 人間の血を吸わず、動物の血で生きている草食ヴァンパイア。好物はクーガー(ピューマ)。 転生してから10年後、カーライルの生き方である草食ヴァンパイアの道に反発し家出。数年間、そのマインドリーダーとしての能力を活かし、悪人の血のみをターゲットとして暮らす。しかし自分の瞳に化け物の姿がちらついたことで考えを改め、カーライルの元に戻った。 いわくありげな笑顔で(本人は自覚していないが)ベラを含む女性をくらくらさせ、たびたびベラに注意を受ける。 映画では、ロバート・パティンソンが演じている。 ジェイコブ・ブラック Jacob Black ラプッシュ居留地に暮らすキラユーテ族という先住民族の少年。なめらかな赤褐色の肌をしており、瞳と髪の色は黒。実は人狼だということが5巻で明かされる。ベラより2歳年下だが容姿はとても大人びており背が高く、ハスキーな声をしている。ベラは年下で少年らしさの残る彼を弟のように思っていたが、ある日のベラの態度にジェイコブは舞い上がり、好意を持つようになった。車など、機械類の修理が得意で、愛車は自分で直した ゴルフ 。 カーライル・カレン Carlisle Cullen エドワードの義父。優秀な外科医で、厳しい訓練を積んだため血を見ても欲望に囚われることはない。これまで一度も人間の血を飲んだことはないという。髪の色はブロンドで、ベラによると「映画スターのだれよりハンサム」「金髪の天使」。見た目は20代後半~30代くらいだが、本当の年齢は362歳。元は 1640年 代に英国国教会の司祭のひとり息子として生まれ、23歳のとき本物の吸血鬼を追い詰めた時に傷を負い、自分の正体を知られると教会の者たちに殺されると直感し、とある地下室の腐ったジャガイモの中に身を潜め、吸血鬼へと変身した。「バケモノになりたくない」という気持ちから獣の血のみを吸って生きることを決めたが、そのことが他の仲間には理解されず、戸惑いながらも孤独の寂しさから孤児になった瀕死のエドワードを彼の母の遺言に従い救い、吸血鬼にした。愛車は メルセデス・ベンツ 。 アリス・カレン Alice Cullen エドワードの義姉。真っ黒なツンツンのベリーショートで、妖精のように華奢で小柄。ベラによると「全ての動作が踊るように軽やか」。予知能力を使い人の未来を見ることができるが、状況に左右されやすく、またジェイコブなど

50 shades of gray

フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ - Wikipedia
『 Fifty Shades of Grey 』( フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ )は E・L・ジェイムズ による イギリス の 官能小説 。 女子大生の主人公が、若く有能だが サディスト の性的嗜好を持つ大富豪の男性と知り合い、 BDSM ( SM )の主従契約を結ぶという内容の 恋愛小説 で、 主婦 が書いた女性向けのエロティックな小説として「マミー・ポルノ」と呼ばれアメリカでベストセラーとなった。もともとは ステファニー・メイヤー 著の『 トワイライト 』シリーズの ファン・フィクション として書かれたもので、 オンライン小説 として発表され、 2011年 に書籍化されたのち ランダムハウス が版権を買い取った。2015年6月現在、全世界で1億2500万部以上の売上と発表されている。続編に『 フィフティ・シェイズ・ダーカー 』と『 フィフティ・シェイズ・フリード 』がある。日本では 早川書房 より翻訳書が発売された。 [ 1 ] アメリカで映画化され 2015年 に公開された。 アナスタシア・スティール(以下アナ)は ワシントン州立大学 バンクーバー校で英文学を専攻する平凡な女子大学生。 卒業試験を目前に控えたある日、熱を出したルームメイトであり親友のキャサリン・キャヴァナー(以下ケイト)に代わり、学生新聞の記者として シアトル にある大企業グレイ・エンタープライズ・ホールディングスの創始者であり CEO のクリスチャン・グレイ(以下クリスチャン)にインタビューすることになる。インタビューをきっかけにアナは若く魅力的なクリスチャンに惹かれ、クリスチャンもまたアナに関心を持ち始める。 ある日、 ポートランド にあるアナのアルバイト先にクリスチャンが現れる。会話の中でアナは、学生新聞用にケイトがクリスチャンの写真を撮りたがっていることを話す。クリスチャンはそれに快諾し、二人は後日また会うことになる。 後日、アナの友人であり写真家志望のホセ・ロドリゲス(以下ホセ)によって撮影は順調に進んでいく。撮影終了後クリスチャンはアナをコーヒーに誘い、二人はカフェへと向かう。その帰り、危うく自転車に轢かれそうになったアナをクリスチャンが抱き寄せ、二人の距離は近くなる。キスしてほしいと目で訴えるアナだったがクリスチャンに「私は君にふさわしくない」と告げられたことにショックを受け、クリスチャンに別れを告げてその場を立ち去ってしまう。 卒業試験が終わった日にアナとケイトは試験終了を祝ってバーへ飲みに行くことになった。家を出ようとしたその時、クリスチャンからアナへ、アナの好きな トーマス・ハーディ の作品である『 ダーバヴィル家のテス 』の初版本が届く。あまりに高価なものが届き、アナは困惑する。 バーで飲んでいたアナはトイレに並んでいる間にクリスチャンに電話し、なぜ『テス』の初版本を送ってきたのか聞こうとする。クリスチャンはアナの話し方からアナが酔っていると察知し、どこのバーで飲んでいるのかアナを問いただす。しかしアナは電話を切ってしまう。 酔いを覚まそうとアナはバーの外に出ていると、一緒に飲んでいたホセがアナの後を追いかけてくる。以前からアナに好意を寄せていたホセは、アナにキスを迫る。アナがホセを拒もうとするとそこにクリスチャンが現れ、二人を止めに入る。そこであまりに泥酔したアナは嘔吐してしまう。そんなアナをクリスチャンは優しく介抱し、アナの自宅へ送ろうとするがアナは気を失ってしまう。 翌朝、アナは目覚めるとベッドの上にいた。クリスチャンはアナのアルバイト先を訪れたあの日からポートランドにあるヒースマン・ホテルに滞在しており、そこはそのスイートルームの一室だった。酔いが覚めたアナはシャワーを浴び、クリスチャンと一緒に朝食を食べる。ようやく『テス』の初版本を送ってきた理由を聞くアナ。クリスチャンは謝罪と警告の意味を込めて贈ったこと、普通の恋愛には興味がなく一般的な嗜好と異なっていること、そしてアナに特別な何かを感じ惹かれていることを明かし、書面で彼女の同意を得るまでは彼女に触れるつもりはないと言う。アナはその日のアルバイトを終えた後、その契約書を見るためシアトルにあるクリスチャンの自宅へ向かうことを約束する。アナを自宅へと送ろうとするクリスチャンだったが、ヒースマン・ホテルのエレベーターの中で欲望を抑えきれず二人は激しい口付けを交わす。 アルバイトを終えたアナはクリスチャンによるヘリコプターの操縦のもと、シアトルにあるクリスチャンの自宅へと向かう。そこでアナは初めに「秘密保持契約書」にサインをさせられ、今後クリスチャンとアナの間に起こる出来事を他言しないよう約束する。そうしてアナはクリスチャンが「プレイルーム」と呼ぶ部屋へと案内される。そこはベッドやソファの他に、 鞭 や 杖 、 手錠 などが置いてある所謂 SMプレイ が行われるような部屋であった。あまりの衝撃に言葉を無くすアナ。サディストなのかと尋ねるアナにクリスチャンは自らを「支配者」であると明かし、アナに彼の「従属者」になってほしいと言われる。契約の内容は、従属者を守るため、なおかつ支配者が喜ぶために設けられたという規則を従属者が従い、支配者を満足させられれば褒美が与えられ、従わなければ罰が与えられるというものである。その際に行われる 性行為 は愛を交わす「セックス」ではなく、激しい「 ファック 」であるとクリスチャンから伝えられる。その契約内容は性行為に関することだけでなく、従属者の食生活や睡眠、服装、運動など多岐に渡り、従属者の生き方を支配しようとするものだった。クリスチャンはアナに合わせて契約内容は修正可能であると言い、アナと契約を結ぼうとする。しかしアナは恋愛経験がほとんどなく未だ処女であり、契約に関する内容があまり分からないことをクリスチャンに告白する。クリスチャンはアナが処女であるということに衝撃を受け、焦りを隠せない。急遽クリスチャンは予定を変更し、その夜はクリスチャンの寝室で二人はバニラ・セックス(「平凡な小道具を使わない性愛」という意味のクリスチャンによる造語)を楽しむ。 その後アナは、クリスチャンが15歳の時彼の養母の友人が初体験の相手だったこと、そこから6年間はその女性の従属者だったこと、過去15人の女性と支配者対従属者の関係を結んでいたことを明かされる。 二人は契約を結ぶ前に、契約書の内容に就いて加筆修正をしていった。それと同時にアナが取った行動に対してクリスチャンが罰としてアナの尻を叩くなど、少しずつ過激な戯れも行うようになった。アナはクリスチャンの従属者になろうと努力しようとしていた。しかし「同じベッドでは寝ることができない」「クリスチャンの身体に触ることはできない」などの規則がアナを契約する決意から遠ざけていた。それと同時に鞭やクリスチャンの手で叩かれることに快楽を見出し始めるなど、自分自身が過激な戯れを少しずつ楽しむようになっていることに気付き、そんな自分に戸惑う。四歳の時にコカイン代を稼ぐ娼婦だった母親と死別したクリスチャンは自らを「五十通りに歪んだ人格」と称し、そんな彼と接するアナは情緒不安定になっていた。二

北欧出身のT

T: 今の欧米の王道はほぼロマンスかHPみたいなファンタジーやメルヘンかな

S:欧米でなろうはほぼ見かけない

北米出身のC

C:異世界ならほぼ100ぱ日本か韓国ダナ。主に日本の作品だと。

アジア出身のW

W:You guys re such a Nerd !

(ヲタクだなぁ)

Y: I LITERALLY STUDY THIS.

(これでも勉強してるんだぜ)

S: LEAVE ME ALONE

(ヲタクなんだ、放っといてくれw)

今や日本のアニメや小説文化は世界にも普及し多くの人に受け入れられているようです。

大体がアニメ→ライトノベルにいくのでアニメも含めた回答になっています。

上記の10人のうち、3人はアニメやライトノベルで勉強し、日本語検定1級、2人は日本語検定2級を持っています。他の2人もかなり流暢に日本語を話せます。

習得方法について聞いてみたところ、

アニメの場合

→基本は日本語音声、英語訳で見る

→日本語音声しかない場合、翻訳アプリ片手に英語または母国語訳で見る

小説の場合

→翻訳アプリを利用し日本語で読む

日本語の独特な響きや言い回しがわからず、たまに聞きに来てくれるのが、嬉しいなと感じます。

多言語習得のヒントにもなりそうです。

他にも同僚の多くが独学で日本語を学んでおり、中には英語教師から入り、日本で勉強した人達もいます。

彼らを見る限り、アニメ等を介した潜在的な日本語話者はまだまだいるなと感じています。

少子化などでこの先、就労人口が減り外国人労働者の雇用が急務だと叫ばれている昨今、

話せない人を受け入れ、教育をするよりも少しでも日本文化を知っているアニメやラノベ採用をしてみてもいいのではと感じます。

話を戻すと、かなり白熱した(たまに逸れながら)討論の結果、回答としては

約80% 日本の作品をそれぞれの言語に翻訳

約15% 中国や韓国の現地のオリジナル作品

約5%  欧米の現地オリジナル作品

とのことでした。(私の周りのヲタク見立てです)

彼らの話では、韓国・中国なども最近は様々な小説も台頭してきているようで、日本のユーザーも増えてきており、

その国独自の小説プラットフォームも続々と立ち上がってきているようです。

数においては日本が大多数を占めており、質においても日本の作品が好まれることが多いようです。

ヲタク文化を上手く使う手腕がカギになりそうです。

ヲタクバンザイ!

そしてHappy Halloween🎃

©I.O.E.A.

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漢文が原因です。とくに漢文の「書き下し」の考え方です。

書き下しとは、中国語⇒日本語の翻訳メソッドです。「逐語的な読替え」「順序の入替え」「助詞等の追加」でできています。原文に記号を追加するだけなので、原文が欠損しません。

日本人は西欧の言語を漢文に見立てて、書き下しを応用しました。逐語的に熟語や単語を当て、順序を入れ替えて翻訳しようとしました。そこにある以上、形式的な"it"も必ず「それ」と訳す。関係代名詞は「ところの」と訳す等です。

直訳という「遠回しで冗長」な文体の出来上がりです。

日本語としてヘンですが、日本人は翻訳メソッドを疑う代わりに「西欧では考え方が異なるのだ」と考えました。「翻訳に文句を言うのは、西欧の考え方の勉強が足りないからだ。もっと勉強せい!」です。

日本で考え方が変わったのは「ゲームの達人」で有名になった「超訳」からです。直訳をさらに普通の日本語に翻訳して大当たりしました。

以来、日本人が直訳を疑うようになりました。

現在は逆に翻訳をナメすぎて「英語はすべて自然な日本語に翻訳しきれる」と思う時代です。日本語に概念がないものには解説か勉強がやっぱり必要です。

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翻訳を読むというのは、原作とは別の作品を読むことだと思います。

たとえば、松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」は、ある英訳で

The summer grasses---- Of brave soldiers’s dreams The aftermath.となっていますが、果たしてこれで「おくの細道」を読んだことになるでしょうか。

清少納言の「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。」は、

"For spring, it is the dawn that is most beautiful.

The skies on top of mountains become lighter and lighter with the rising of the sun.

The long thin clouds that turn light purple are a sight to be enjoyed, too. "

これで、枕草子を読んだことになるのでしょうか。

また、鴨長明の

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖とまたかくのごとし。」

は、

"The flowing river never stops and yet the water never sta

翻訳を読むというのは、原作とは別の作品を読むことだと思います。

たとえば、松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」は、ある英訳で

The summer grasses---- Of brave soldiers’s dreams The aftermath.となっていますが、果たしてこれで「おくの細道」を読んだことになるでしょうか。

清少納言の「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。」は、

"For spring, it is the dawn that is most beautiful.

The skies on top of mountains become lighter and lighter with the rising of the sun.

The long thin clouds that turn light purple are a sight to be enjoyed, too. "

これで、枕草子を読んだことになるのでしょうか。

また、鴨長明の

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖とまたかくのごとし。」

は、

"The flowing river never stops and yet the water never stays the same.
Foam floats upon the pools, scattering, re-forming, never lingering long.
So it is with man and all his dwelling places here on earth."

これを読んで「方丈記」を読んだと言えるでしょうか。

そのうえで、ハルキの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は純粋なハルキ作品としておすすめします。原作とは全く違う純粋なハルキ節が楽しめます。いや、これこそが「ハルキ節」の原点でしょう。これは、福島正実の「夏への扉」に勝るとも劣らぬ、独自の世界を作っています。もっとも、福島正実の「文化女中機」という語を見たときはぶったまげましたが。

もっとも、

The taxi’s radio was tuned to a classical FM broadcast. Janáček’s Sinfonietta—probably not the ideal music to hear in a taxi caught in traffic.

タクシーのラジオ、 FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの 「シンフォニエッタ。」渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聴くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。

になると、英語のほうが原文に思える。上は、Jay Rubin訳の「1Q84」英語版。下はハルキ本人の日本語版。なんだか、英語版のほうが原文に思える。これがハルキが欧米で売れている秘密かな。ハルキは最初から英語市場を狙っているのかも知れぬ。

「タクシーにはクラシックのFMが流れていた、ヤナーチェックの シンフォニエッタ。渋滞のタクシーには似つかわしくない曲だ」と私なら書くかも知れぬ。どうも日本語にしては説明しすぎている気がするが、皆様、いかがでしょうか。

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ゼンゼンおかしくないです

国語の問題は,問題を出したひとが問題に答えるひとに投げかけた

問題を読解させるゲーム

それにより読解力を判定する

問題に引用された長文を読解させるんじゃない

ましてその長文の鑑賞でも批評でも研究でもない

作者などカンケーない

だから「趣旨を述べよ」などというアイマイな問題は出されません

答が1つだけ出るようにきちんと絞られた表現がなされてます

まれに問題を出したひとが捏ねくり回しすぎて変な問題も出されますけど

(S台の模試で実際ありました ワタシ指摘して,印刷されて配布済みの解答が撤回されたことがありました)

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ロマンス語の日本語翻訳の場合、殆どの場合、元の言語で読むほうが簡単なので、元の言語で読むことを勧めます。たとえば、

高校生の頃、あまりに「翻訳が不可解」で読了するすることを断念した小説に、ヘルマン・ヘッセの「ガラス玉演技」があります。

最初に読んだ日本語訳

「.ある点では、そしてまた思慮の浅い人々に とっては、現実的に存在しないもののほうが、存 在するものより、ことばによって表現するのに、 容易であり、責任を伴わないかもしれないが、敬虔で良心的な歴史家にとっては、ま さにその反対である。すなわち、ある事物の現実的存在は証明することができないし、ほんとうらしくもないとしても、敬虔な良心的な人々が、そ れをある程度存在するものとして取り扱うことに よって、存在と生起の可能性に一歩近づけられる ような事物がある、そういう事物ほど、ことばで 表現しにくいものはないが、また、そういう事物 ほど、人々の目の前に示してやる必要のあるもの はない。」

長年放置していたのですが定年後暇になったので英語で読んだら、アラ、簡単。

. . .For although in a certain sense and for light-minded persons non-existent things can be more e

ロマンス語の日本語翻訳の場合、殆どの場合、元の言語で読むほうが簡単なので、元の言語で読むことを勧めます。たとえば、

高校生の頃、あまりに「翻訳が不可解」で読了するすることを断念した小説に、ヘルマン・ヘッセの「ガラス玉演技」があります。

最初に読んだ日本語訳

「.ある点では、そしてまた思慮の浅い人々に とっては、現実的に存在しないもののほうが、存 在するものより、ことばによって表現するのに、 容易であり、責任を伴わないかもしれないが、敬虔で良心的な歴史家にとっては、ま さにその反対である。すなわち、ある事物の現実的存在は証明することができないし、ほんとうらしくもないとしても、敬虔な良心的な人々が、そ れをある程度存在するものとして取り扱うことに よって、存在と生起の可能性に一歩近づけられる ような事物がある、そういう事物ほど、ことばで 表現しにくいものはないが、また、そういう事物 ほど、人々の目の前に示してやる必要のあるもの はない。」

長年放置していたのですが定年後暇になったので英語で読んだら、アラ、簡単。

. . .For although in a certain sense and for light-minded persons non-existent things can be more easily and irresponsibly represented in words than existing things, for the serious and conscientious historian it is just the reverse. Nothing is harder, yet nothing is more necessary, than to speak of certain things whose existence is neither demonstrable nor probable. The very fact that serious and conscientious men treat them as existing things brings them a step closer to existence and to the possibility of being born.

つまり、

「ある意味、あまりよく考えないタイプの人には、現実にはないものについて考えるほうが、簡単にいい加減に言葉にできそうに思えるかもしれない。でもそれは、慎重に考える歴史家には全く逆なのだ。現実にあったことなのに言葉にできないことというのがある。でも、これを何とかして言葉にして表現したい。これこそが難しいのだ。こういった場合には、現実に存在するものに喩えて、一歩でも、現実に存在するものに近づけて、なんとか、表現するように試みるものだ。」

という意味だろうと思う。

このように、ロマンス語のものはせめて、英語で読むほうが簡単な場合があります。

佐藤 基さんのプロフィール写真

ジャン=ジャック・ベネックス監督の「ベティ・ブルー」じゃないでしょうか?なんせ、原題が「朝の37,2度」といった、何じゃそれ?みたいなタイトルでしたしね。(妊娠しやすい体温の事らしい)

尚、邦題はアメリカでの公開タイトルをそのまま付けたものです。ベネックス監督はその後、ヒット作に恵まれず、他界したのが残念です。

ジャン=ジャック・ベネックス監督の「ベティ・ブルー」じゃないでしょうか?なんせ、原題が「朝の37,2度」といった、何じゃそれ?みたいなタイトルでしたしね。(妊娠しやすい体温の事らしい)

尚、邦題はアメリカでの公開タイトルをそのまま付けたものです。ベネックス監督はその後、ヒット作に恵まれず、他界したのが残念です。

Ohta Mutsumiさんのプロフィール写真

私はコッキョウ派なんですが、その方が音の響きが良いのです。何故かなと考えて音節数を数えてみました。「キョ」は一音節で数えています。

コッキョウノ ナガイ トンネルヲ 5–3–5
クニザカイノ ナガイ トンネルヲ 6–3–5

日本語は奇数音節でつないでいくとリズムが出るとされていて(5–7や7–5)、クニザカイの6音節よりはコッキョウの5音節の方がリズムが出ると思います。

西 一雄さんのプロフィール写真

JDサリンジャー”キャッチャーインザライ”です。

野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」では長い間判らなかった「ホールデンの狂気」が、村上春樹版で初めて判明しました。私も原文で若い頃読んだ経験がありましたが、気がつきませんでした。村上さんは、まだ存命中だったサリンジャーから「絶対に注釈を入れるな」という条件で翻訳を請け合い、しらっと注釈を入れて、この名作のまったく違う側面にスポットライトを当てました。

それは、フイービーの書取帳の描写です。明らかに綴りが間違っているのに、ホールデンは気がつかない。小説の冒頭で仄めかされる精神病棟への入院を裏付ける伏線です。野崎訳では出てきません。

Quora Userさんのプロフィール写真

回答ではないんですが、

ハリーポッターの表紙は国によって違ってて

.

日本はコレなんですが、他の国の絵柄でここまで人気が出ただろうか?と思うことがあります。

画像

国によってこんなに違う。ハリーポッターの表紙絵一覧 | カラパイア
世界的大ヒットとなった、英国作家J・K・ローリングによるファンタジー小説「ハリー・ポッターシリーズ」…

回答ではないんですが、

ハリーポッターの表紙は国によって違ってて

.

日本はコレなんですが、他の国の絵柄でここまで人気が出ただろうか?と思うことがあります。

画像

国によってこんなに違う。ハリーポッターの表紙絵一覧 | カラパイア
世界的大ヒットとなった、英国作家J・K・ローリングによるファンタジー小説「ハリー・ポッターシリーズ」…
前田せいめいさんのプロフィール写真

以下リスト( 青空文庫 Aozora Bunko より)から、お好きなものをどうぞ。

作家別作品リスト:森 鴎外

作家別作品リスト:芥川 竜之介

(縦書きでの表示は、青空文庫のXHTML,TEXTの読み方 を参照ください)

彼らの文章は原文は「旧字旧仮名」で書かれてはいますが、「現代語」です。そのままのものもあれば新字新仮名、新字旧仮名に直されたものもあります。(ただし人力入力なので、入力ミスらしいものもたまにあります)

先入観抜きにどれでもいいので読んでみてください。とりあえず、新字新仮名のものがとっつきやすいかもしれません。(個人的には、新字新仮名では元の文章の持つ魅力が半減すると思っているので、慣れてきたら是非、旧字旧仮名で読んでほしいところです)

森鴎外の作品に文語体のものがありますが、ほとんどは口語体なので、古語辞典なんか必要ありません。分からないことばは、手近の辞書を見ればだいたい載っていると思います。

文語体の作品(「即興詩人」とか「舞姫」とか)を読むには古典の文法を知らないと戸惑う表現があるかもしれませんが、学校で教わることだけで十分理解できます。

即興詩人 (アンデルセン ハンス・クリスチャン) (鴎外訳)

舞姫 (森 鴎外)

旧字に挑戦するなら、分からない旧字は 漢字ペディア 漢字や言葉の意味を調べてみよう! などで検索しましょう。

ひょっとして、「旧字旧仮名」を「新字新仮名」に直す

以下リスト( 青空文庫 Aozora Bunko より)から、お好きなものをどうぞ。

作家別作品リスト:森 鴎外

作家別作品リスト:芥川 竜之介

(縦書きでの表示は、青空文庫のXHTML,TEXTの読み方 を参照ください)

彼らの文章は原文は「旧字旧仮名」で書かれてはいますが、「現代語」です。そのままのものもあれば新字新仮名、新字旧仮名に直されたものもあります。(ただし人力入力なので、入力ミスらしいものもたまにあります)

先入観抜きにどれでもいいので読んでみてください。とりあえず、新字新仮名のものがとっつきやすいかもしれません。(個人的には、新字新仮名では元の文章の持つ魅力が半減すると思っているので、慣れてきたら是非、旧字旧仮名で読んでほしいところです)

森鴎外の作品に文語体のものがありますが、ほとんどは口語体なので、古語辞典なんか必要ありません。分からないことばは、手近の辞書を見ればだいたい載っていると思います。

文語体の作品(「即興詩人」とか「舞姫」とか)を読むには古典の文法を知らないと戸惑う表現があるかもしれませんが、学校で教わることだけで十分理解できます。

即興詩人 (アンデルセン ハンス・クリスチャン) (鴎外訳)

舞姫 (森 鴎外)

旧字に挑戦するなら、分からない旧字は 漢字ペディア 漢字や言葉の意味を調べてみよう! などで検索しましょう。

ひょっとして、「旧字旧仮名」を「新字新仮名」に直すことを「現代語訳」って言ってます? だとすれば、「原文」を読むコツは旧字旧仮名に慣れることです。旧字といってもほとんどは見た目の形で新字が分かるし、あまり構えずにとりあえず読んでみてください。中には「畫(画)」と「晝(昼)」と「書」みたいな分かりにくい字もありますが、文脈で想像できることも多いはずです。

【みんなの知識 ちょっと便利帳】旧字体・新字体対照表(旧漢字・新漢字対照表)ディスプレイ表示最適化版 - 旧字体一覧/旧漢字一覧

先に述べたように、わたしは旧字旧仮名で書かれた作品は旧字旧仮名で読みたいと思っているひとりなので、お仲間が増えればうれしいです。

はるきちさんのプロフィール写真

「カールじいさんの空飛ぶ家」です。

原題はシンプルに”up”です。

ほかにも「メリダとおそろしの森」は”Brave”

「アナと雪の女王」は”Frozen”など、ディズニー/ピクサーアニメはそっけないほどシンプルで抽象的なタイトルをつける傾向があります。感性の違いなのでしょうけれど、邦題の方が親しみが湧く感じはします。

「カールじいさんの空飛ぶ家」です。

原題はシンプルに”up”です。

ほかにも「メリダとおそろしの森」は”Brave”

「アナと雪の女王」は”Frozen”など、ディズニー/ピクサーアニメはそっけないほどシンプルで抽象的なタイトルをつける傾向があります。感性の違いなのでしょうけれど、邦題の方が親しみが湧く感じはします。

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クワイ川の橋と言うのであればover the riverと表現するのがアメリカではすごく一般的ですね。

しかし、川の周辺で起きた河川敷も含んでいた場所にかけられた橋と言うのであれば、on the riverと言う表現を使うのは難しい事ではないと私は信じますよ。

言い方を変えると、on the/a riverと言う表現を使ってrestautants ON a river in Tokyoググると当然のごとく東京の川岸にあるレストランが紹介されます。restaurants on Lake Michiganとしても湖の「水の上にある」レストランという事ではないのですね。

そして彼らが作ろうとしているのがいろいろな作業や議論がなされた川岸の土地と川の水をまとめてRiverと呼んだのは理解できますね。

しかし、映画ではアメリカ人にとってはもっとインパクトを取ろうとしたのが1957年ごろとされている事かOver the Riverと言う表現を使って問題の川に「関わる」橋と言うタイトルはこれもまた当然考えられることだと思いますよ。

よって日本語のタイトルでは「戦場にかける橋」と言うこれまたインパクトのあるOver the Riverの解釈から道びだされたものと思います。俳句を詠んでいる気分のタイトルですね。(戦場に、かける橋、春を待つ限り。失礼しました。)

因みに、このoverはfight over a g

クワイ川の橋と言うのであればover the riverと表現するのがアメリカではすごく一般的ですね。

しかし、川の周辺で起きた河川敷も含んでいた場所にかけられた橋と言うのであれば、on the riverと言う表現を使うのは難しい事ではないと私は信じますよ。

言い方を変えると、on the/a riverと言う表現を使ってrestautants ON a river in Tokyoググると当然のごとく東京の川岸にあるレストランが紹介されます。restaurants on Lake Michiganとしても湖の「水の上にある」レストランという事ではないのですね。

そして彼らが作ろうとしているのがいろいろな作業や議論がなされた川岸の土地と川の水をまとめてRiverと呼んだのは理解できますね。

しかし、映画ではアメリカ人にとってはもっとインパクトを取ろうとしたのが1957年ごろとされている事かOver the Riverと言う表現を使って問題の川に「関わる」橋と言うタイトルはこれもまた当然考えられることだと思いますよ。

よって日本語のタイトルでは「戦場にかける橋」と言うこれまたインパクトのあるOver the Riverの解釈から道びだされたものと思います。俳句を詠んでいる気分のタイトルですね。(戦場に、かける橋、春を待つ限り。失礼しました。)

因みに、このoverはfight over a girl, war over the oil supplyと言う表現に使われたoverに似ているのが感じ取れると思います。

Okamoto Tetsuさんのプロフィール写真

小説、特に純文学を読むのはある程度富裕層の男性の時代ですので、遊んでいるね、自分もこんな遊びしたいなあ、と思っていたのではないでしょうか。

一種の官能小説のおもむきがあります。例えば女体の味を指が覚えている、というのはどこにどういう風に指をつかったのかがわかれば、ものすごいエロチックな描写です。駒子も方言でないのは全国の読者向けだったのでしょう。

宮本 敏宏さんのプロフィール写真

リクエストにお答えします。コチラですね!!

2013年、伊製作、英語題名は"THE BEST OFFER" イタリア語の原題も同じ様な感じだそうですが、コレの翻訳だと面白そうには感じませんが、⇧の邦題だとミステリアス感(実際にそうです)が生まれて来ますね。

リクエストにお答えします。コチラですね!!

2013年、伊製作、英語題名は"THE BEST OFFER" イタリア語の原題も同じ様な感じだそうですが、コレの翻訳だと面白そうには感じませんが、⇧の邦題だとミステリアス感(実際にそうです)が生まれて来ますね。

権 寧夫さんのプロフィール写真

異論あるかもしれませんが、原作を他の国の言葉にフルに翻訳することはまず無理だろうと思います。一般の語彙ならまだしも、文化や心情の世界を外国語に翻訳する場合、元の意味を正確に伝えるのは「至難のわざ」に違いないと思います。

例えば、「俳句」の世界など、意味は伝えられるでしょうけど、「味」まで伝えられるか疑問です。私の場合、糧を得る手段として日本語と韓国語(また、その反対)の翻訳をしていますが、文学作品の翻訳が一番難しいです。ニュースや経済関連は同時通訳が出来ても、文化、文学、歴史などは手に負えないと告白する人が多い、「ように」思います。(「と」思います、と味が違いますね。)

感動詞の場合、豊富にある韓国語を日本語に訳すのはもうお手上げです。無数にある日本語のオノマトペを的確に韓国語に訳すのもギブアップです。

一般のかたは、深い深い意味よりも、全体のアウトラインで納得する場合が多い「ような」気がするのでなんとか間に合っていますが、真の意味を求めるかたには、説明しきれない、いや本人でも「ようわからん」場合が多い感じがしてなりません。

より正確に伝えるために努力するべき、と思っています。(やれやれ)