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UTaTanéの皆様、素晴らしい企画をありがとうございます。とっても楽しい内容で、もっと時間を長くしてほしいとばかり思っていました。

概要はすでに紹介あるので、主催された学生さんをターゲットとして私なりの感想を述べさせていただきます。今回で強く印象に残ったのは、グループワーク型のセッションであったことです。より具体的には、ビジネスケース型、プレゼン型の要素をもった自由度の高いディスカッション形式のグループワークだなと感じました。学問領域やdegreeによりますが、社会科学系の修士あたりだと最もスタンダードな方法です。主体性・多様性・協調性など人格面の涵養として良い学びになります。

あくまでも一般論で、グループワークは社会人経験があると割合に親和性の高い手法なのですが、学生がこれをプログラムとして実践するのはなかなか難しいだろうなという印象があります。すごく理想的ではあるがそれだけに難しい。ブレークアウトセッションで「ハイリスク・ハイリターン」という言葉を使ったのもそういう気持ちがあったからです。でも、そんなことはただの老婆心だなと思えるくらいに素晴らしいディスカッションになってました。この結果は称賛する以外の何ものでもありません。そんな素晴らしい学生さんと一緒に学べたことは本当に嬉しい時間でした。

感想の締めくくりとして、今回の学びをよりブラッシュアップするための課題を考えてみましたので

UTaTanéの皆様、素晴らしい企画をありがとうございます。とっても楽しい内容で、もっと時間を長くしてほしいとばかり思っていました。

概要はすでに紹介あるので、主催された学生さんをターゲットとして私なりの感想を述べさせていただきます。今回で強く印象に残ったのは、グループワーク型のセッションであったことです。より具体的には、ビジネスケース型、プレゼン型の要素をもった自由度の高いディスカッション形式のグループワークだなと感じました。学問領域やdegreeによりますが、社会科学系の修士あたりだと最もスタンダードな方法です。主体性・多様性・協調性など人格面の涵養として良い学びになります。

あくまでも一般論で、グループワークは社会人経験があると割合に親和性の高い手法なのですが、学生がこれをプログラムとして実践するのはなかなか難しいだろうなという印象があります。すごく理想的ではあるがそれだけに難しい。ブレークアウトセッションで「ハイリスク・ハイリターン」という言葉を使ったのもそういう気持ちがあったからです。でも、そんなことはただの老婆心だなと思えるくらいに素晴らしいディスカッションになってました。この結果は称賛する以外の何ものでもありません。そんな素晴らしい学生さんと一緒に学べたことは本当に嬉しい時間でした。

感想の締めくくりとして、今回の学びをよりブラッシュアップするための課題を考えてみましたので少し紹介しておきます。

マーケティングでは3つのM(Market Message Media)が知られていますが、その派生とも言えるSNSの3つのMが、Monitor(観察) Mingle(交流) Measure(測定) です。「バズる」という現象を考えるには、後者のSNSにおける3つのMが有効とも言われています。本当の情報を見抜く手法として、学問ではこんなアプローチがなされているということです。

真贋の違いを評価する科学的手法ももちろん重要ですが、精神的生活においては幸福か不幸かという違いも重要です。この2つの評価軸はトレードオフするものではなく、マトリックスで考えてみると面白いです。エンターテイメントの世界は、美しい嘘の要素が強くありますで。例えば子どもにとってのサンタクロースは、その象徴でしょう。本当を追求する科学的な要素と幸福を求める哲学のような要素はシンクロする部分もありますが、「幸せな嘘」と「不幸なな本当」は科学のみでは説明できないことでもあります。重要なのは、そうした構造化から何が必要なのかを読みとくことで、情報リテラシーの本質もそうしたことが基底にあるのかも知れません。

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東大 UTaTané(うたたね) のみなさん、アレンジ頂いたMaiさん・オン会事務局のみなさん、お忙しい中ありがとうございました!そして参加された皆さんもありがとうございました!

いや~凄く面白く楽しかったです!

今回のオン会を簡単に説明すると、『嘘満載の商品情報チラシを自分たちで作成することで、商品をだまして買わせようとする側の心理を認識し、それを利用して騙されないようにしようという試み』です。

この『相手側の心理になって考える』という手法は日常生活の中の色々な場面でも活用されていますし、知らず知らずのうちに実践していたりもします。

例えば、防犯とか恋愛とかなんでも色々あります。防犯でいえば、自分の家に泥棒に入ろうとすればどうやって泥棒に入るだろうか?と考えることで家の防犯上の問題点が浮かび上がってきます。恋愛でいえば、誕生日にどんなプレゼントやイベントをしたら相手が喜ぶだろう?と考える際に、自分がどうしてもらったらうれしいだろうと考えたりしますよね。

日常的に行ったりもする手法ですが、人をだまそうなんて普段思ってませんよね~ だから、だます側の心理を考えることはほぼ皆無なんです。だからだまされるんだと思います。

普段考えないだます側の心理を経験することで、だまされない力を身に着けようということは理にかなっているし、とても面白く興味深いものでした。

このやり方は例えば情報セキュリティやITやS

東大 UTaTané(うたたね) のみなさん、アレンジ頂いたMaiさん・オン会事務局のみなさん、お忙しい中ありがとうございました!そして参加された皆さんもありがとうございました!

いや~凄く面白く楽しかったです!

今回のオン会を簡単に説明すると、『嘘満載の商品情報チラシを自分たちで作成することで、商品をだまして買わせようとする側の心理を認識し、それを利用して騙されないようにしようという試み』です。

この『相手側の心理になって考える』という手法は日常生活の中の色々な場面でも活用されていますし、知らず知らずのうちに実践していたりもします。

例えば、防犯とか恋愛とかなんでも色々あります。防犯でいえば、自分の家に泥棒に入ろうとすればどうやって泥棒に入るだろうか?と考えることで家の防犯上の問題点が浮かび上がってきます。恋愛でいえば、誕生日にどんなプレゼントやイベントをしたら相手が喜ぶだろう?と考える際に、自分がどうしてもらったらうれしいだろうと考えたりしますよね。

日常的に行ったりもする手法ですが、人をだまそうなんて普段思ってませんよね~ だから、だます側の心理を考えることはほぼ皆無なんです。だからだまされるんだと思います。

普段考えないだます側の心理を経験することで、だまされない力を身に着けようということは理にかなっているし、とても面白く興味深いものでした。

このやり方は例えば情報セキュリティやITやSNSに絡む犯罪防止教育などを小学校や中学校で実施する際に活用すれば非常に大きな学習効果が得られるようにも思いました。(もうすでにされてるのかもしれませんが)

そして、他の分野やテーマにも応用できるように感じました。

非常に有益なオン会でしたし、本当に楽しかったです!

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初めまして。がっつり遅刻したものであります・・大変申し訳ない。

朝から会議だらけでさすがに20:00には終わるだろうと思ってましたが。いつのまにか突き抜けておりまして。遅刻してしまいました。おにぎり2個だけで23:30の日になってしまい、お話を伺いながら、腹減ったなー。と思っていたものです。重ねて申し訳ない。しかもあわててZOOMアップしてたらカメラを落としてしまい、ざっとセットしなおしたら、顔の上半分になってしまったのも、これまた申し訳ない。

途中参加でしたので、質問も遠慮しておいたのですが。大変興味深いお話でした。


感想:心をいかにして定量的に測定するのか?

これは深いなぁ。と、思いました。VASの概念は理解できますし、確かにソフトを活用すれば簡単に?(というと失礼ですが)集計できるようにも・正確に集計できる傾向にもなると思いますが、質疑で色々出てましたが、では現在どうして1本の線で考えるのか?面ではダメなのか?立方体?球体? それぞれソフトを作るのは簡単です。なんなら私が作れます。しかし考えます。自分の心の位置を、果たしてその本人が線的に、面的に立方的に表現することができるのか?それができないと(つまり自分の心の位置を脳内で解釈し、本人が指でココだと示せる)どういうデバイスでどういうソフトを作ろうとも、正しくとらえる事はできないんだろうなぁ。と思いました。

痛みにしても、愛してる度合い

初めまして。がっつり遅刻したものであります・・大変申し訳ない。

朝から会議だらけでさすがに20:00には終わるだろうと思ってましたが。いつのまにか突き抜けておりまして。遅刻してしまいました。おにぎり2個だけで23:30の日になってしまい、お話を伺いながら、腹減ったなー。と思っていたものです。重ねて申し訳ない。しかもあわててZOOMアップしてたらカメラを落としてしまい、ざっとセットしなおしたら、顔の上半分になってしまったのも、これまた申し訳ない。

途中参加でしたので、質問も遠慮しておいたのですが。大変興味深いお話でした。


感想:心をいかにして定量的に測定するのか?

これは深いなぁ。と、思いました。VASの概念は理解できますし、確かにソフトを活用すれば簡単に?(というと失礼ですが)集計できるようにも・正確に集計できる傾向にもなると思いますが、質疑で色々出てましたが、では現在どうして1本の線で考えるのか?面ではダメなのか?立方体?球体? それぞれソフトを作るのは簡単です。なんなら私が作れます。しかし考えます。自分の心の位置を、果たしてその本人が線的に、面的に立方的に表現することができるのか?それができないと(つまり自分の心の位置を脳内で解釈し、本人が指でココだと示せる)どういうデバイスでどういうソフトを作ろうとも、正しくとらえる事はできないんだろうなぁ。と思いました。

痛みにしても、愛してる度合いにしても、それを定量的に解析しようとする試みだと思います。確かにVASは過去の集計方法よりメリットが得られそうに思うけれども、ココだ。と決める人間が、いったいどうやって自分の心を数値化しているのだろう?という妄想をお話を伺いながら考えてました。


質問的感想

話を途中から聞いていたので、ビビって聞けなかったのですが、質疑の中で、VASによって一定の成果があった的話が流れた時、えぇ。そうなんですか?従来型の限界とVASによる統計でどれほどの差異があり、(といったあたりから参加したw)だから医療機関等では導入されはじめて・・みたいな流れを理解できずに終わってしまった点が少々悔やまれます。なにか情報ありましたらURLとか教えていただけると幸いです。

正直、確かに優位性はあると思うものの、それほど差が出るのか?質疑でもありましたが、心の位置を決める部分(量子的か連続的か)はおいといたとしても、質問の作成品質・それを書きこむ人の心理状態によって左右される割合のほうが心の位置を決める手法の部分より高いのではないか?と思ったからです。


最期のプログラムな話。

Z-80時代のお話をされている方は同世代だと思いますが、そのお話をされるまでは、肌がきれいだなー若いんだろーなー。いいおとこだなー。もてるんだろーなー。と思っていたのに。「callといえばCD」・・ってぜっぱちの話じゃん!wいくつですか!!と叫びました。(ミュートしてましたがw)

ちなみにプログラムをアセンブラで。というのは一理はあります。しかし推奨はしません。昔のCPUは8ビット(今は64ビット全盛)なので、できる範囲がかなり小さいのでできてました。今は64ビット全盛。時代が違うとしか。とはいえ8ビットマイコンがなくなったわけではありません。H8等のCPUもありますので入門キットを買ってくるのはアリです。(若い子がアセンブラできるとブートローダとかの泥臭い仕事をしてくれる人ができて業界が喜びます。今は絶滅危惧種指定されている業種ですw)

私の子供には色々実験的に何に興味を持つのか。それぞれ壊してもいいデバイスを幼少の頃から与えてきましたが、最終的に一番長続きしたのはC#(.net)の勉強ですかねぇ。

いずれにしろ、言語はなんだっていいのです。我々が日本語を話すように。英語圏の人、スペイン語圏の人、それぞれの地域で産まれたらその環境にあわせて勉強するでもなく言語って覚えると思います。

目の前にあるものでよいと思うのです。


ZOOMを退席し、しばしのあいだ、スマホの画面をじっと眺めました。

私は、私の心をこの2次元の画面の位置で表現することも、得ようとする事もできないなぁ。最新の研究というのはおっかない領域なんだなぁ。と思いました。


ここまで書いておいて、ふと気が付きましたが。内容にかいちゃダメとかありましたら、回答削除しますので、ご指摘下さい。(まだルールがよくわかってない。すみません。初参加です)

次回は遅刻しないようがんばります。たぶん春には。来期の予算騒動が落ち着けば。時間はゆっくり取れるハズ!・・たぶん・・・縁がありましたら次回。皆さままたでございます。

Tokieda Yukinobuさんのプロフィール写真

宮内さんをはじめとして皆さんの動物のプレゼンはとても楽しかったです。進化によって動物は多様化したとされるが, 自然発生でそこまで最適化した種が発生するのか, 疑問を再認識しました。生物の進化には意志のようなものがあるのでは... とも感じました。

宮内 諭さんのウォンバットをはじめとする有袋類の話は面白かったです。超未熟児の状態で産み, 袋の中で育てるスタイルをとる動物が生存を続けていることは疑問でした。それが, 彼らが種をつなぐことの効率性として選択した戦略と知り, 驚きました。その話を聞きながら, 下図のようなことを想像していました。これは, コンピュータの実行タイミングを表しています。コンピュータの命令実行は, 命令を取り出し (IF), 解読し (ID), 実行し (EX), メモリにアクセスし (MEM), 結果を書き出す (WB) という複数段階の動作で構成されます。初期のコンピュータではすべてが終わるまで次の命令が実行できませんでした。コンピュータの発展ともに, パイプライン型実行ができるようになってきました。パイプライン実行では, 命令取り出し (IF) が終われば次の命令の取り出しができるというものです。パイプライン化によって, 単位時間内に実行できる命令の数が飛躍的に増大しました。なるほど... ウォンバットやカンガルーのような有袋類は種をつなぐ意味でパイプライン

宮内さんをはじめとして皆さんの動物のプレゼンはとても楽しかったです。進化によって動物は多様化したとされるが, 自然発生でそこまで最適化した種が発生するのか, 疑問を再認識しました。生物の進化には意志のようなものがあるのでは... とも感じました。

宮内 諭さんのウォンバットをはじめとする有袋類の話は面白かったです。超未熟児の状態で産み, 袋の中で育てるスタイルをとる動物が生存を続けていることは疑問でした。それが, 彼らが種をつなぐことの効率性として選択した戦略と知り, 驚きました。その話を聞きながら, 下図のようなことを想像していました。これは, コンピュータの実行タイミングを表しています。コンピュータの命令実行は, 命令を取り出し (IF), 解読し (ID), 実行し (EX), メモリにアクセスし (MEM), 結果を書き出す (WB) という複数段階の動作で構成されます。初期のコンピュータではすべてが終わるまで次の命令が実行できませんでした。コンピュータの発展ともに, パイプライン型実行ができるようになってきました。パイプライン実行では, 命令取り出し (IF) が終われば次の命令の取り出しができるというものです。パイプライン化によって, 単位時間内に実行できる命令の数が飛躍的に増大しました。なるほど... ウォンバットやカンガルーのような有袋類は種をつなぐ意味でパイプラインになっていたのか... と思い, 有袋類が生き残ってきたことを納得しました。

藤岡 純治さんのハチクマの話は, 動物はそこまでして食を追求するのかと思いました。たいていの動物は蜂が苦手です。クマのプーさんのように, クマはハチミツが好きと思われていますが, 実際, 刺されるのが嫌なので飢えていない限りはハチミツをとりにいかないそうです。にもかかわらず, 果敢にハチの巣にアタックするように進化したハチクマに感動しました。

Quoraユーザーさんのハダカデバネズミは衝撃でした。名は体を表すというまでの不気味な外見, 哺乳類なのに体温調整機能がなく, 互いに多い重なり温めあう習性は興味深かったです。猫が狭いところに多い重なるのはかわいいですが, ハダカデバネズミの団子状態は, キモかわいい? ちょっと不気味? でした。^^;

大岡 夏代さんのシカの話も面白かったです。動物の脚の構造は面白いですね。むしろ, 人間のようにかかとを設置して歩行している動物の方が少ないのです。しかし, シカのかかとがずいぶん上にあることは驚きます。

Quoraユーザーさんの金魚の話には, 金魚への愛を感じました。もともとはフナから品種改良された金魚が, 多種多様に改良され, 世界中で高く評価されていることに驚きました。ディスカッションの中でも出てきましたが, 品種改良の技術国がイギリス, オランダ, 日本 というのも納得です。また, 江戸時代は上から金魚を見ていたので, 上からの美しが重要だったことは学びでした。

Petrosky TomioさんのTexasの庭に訪れる動物たちは驚きました。20年近く前にミシガン大学に行った際に, リスであることを疑うような巨大なリスを見たことがあり, オポッサムの話も聞いていましたが, それらを写真で見せていただき, とても面白かったです。冒頭の United States of Texas の地図は最高でした!

Kenn Ejimaさんの蛇の擬態の話, Quoraユーザーさんのクジラの話も大変興味深かったです。擬態の話では, 生物の進化が自然発生であることを疑いたくなりました。何らかの意思をもって自分たちの姿を変えているかのようでした。陸から海に戻った動物の題名のクジラですが, エコーロケーションや, 230デシベルに達する音波の発生は脅威です。ジェット機の傍の騒音が 120デシベルですから, クジラのクリック音はエネルギーレベルではその100憶~1000憶倍 (振幅でも10万倍) ですね。スケールが違いすぎます。[追記] 230デシベルって音圧では60気圧ですね。人間はつぶれてしまいますね。

今回は, 様々な楽しい話が聞け, 皆さんの知識の深さや話の重しさを感じ, 時間があっという間に過ぎました。また, 進行してくださったMaiさん, お疲れさまでした。

私の即興プレゼンで登場したミーアキャットの三輪さんと加藤さんたちをご覧になりたい方は, こちら↓ をどうぞ。

ゆるゆるリラクゼーションat Quora: シュライヒ動物フィギュア

山田 洋平さんのプロフィール写真

私の父は3年前に長男の結婚式の後に胸腺癌という20万人に1人かかるという珍しいガンになりました。そして昨年亡くなりました。その父が闘病生活中に何度か「お父さんは今も幸せだし、今までも幸せだったよ」と言っていました。

その父がまた、痛み止めのモルヒネを打った後は「モルヒネは楽だ!なんかラリっているようにフワフワと幸せな感じになっちゃうんだ!」とも言っていました。

この二つの「幸せ」という言葉は明らかに違う次元にある幸せだと思います。

前者は明らかに身体的に衰え痛みを薬を抑え、海外旅行をする夢も絶たれ、自分が没頭したかった彫刻や絵画もできなくなった、一般的に「不幸のどん底」であるのにも関わらず、幸せであると認識している。我が父ながら凄まじいものだと思いました。

後者は肉体的に薬の力によって幸福感を得ている。薬が切れればその幸福感を思い出しても、得られず同じ状況を繰り返さなければ得られない幸せ。消耗品のような幸福です。

父はガンが判明してから余命半年と言われたので、そこからほぼ月一回は実家へ帰り、死や生、喜びや恐怖感、哲学や宗教などについて2年余話してきました。

『病院で相部屋になった時、同室の患者が昼間医者や看護師、家族といる時には平然と過ごしているのにも関わらず夜には一人で泣いている。病気になったのがどれだけ不幸であるかを自分に語ってくる。』

『明日生きていると思うことは、永遠に自分が生きていると

私の父は3年前に長男の結婚式の後に胸腺癌という20万人に1人かかるという珍しいガンになりました。そして昨年亡くなりました。その父が闘病生活中に何度か「お父さんは今も幸せだし、今までも幸せだったよ」と言っていました。

その父がまた、痛み止めのモルヒネを打った後は「モルヒネは楽だ!なんかラリっているようにフワフワと幸せな感じになっちゃうんだ!」とも言っていました。

この二つの「幸せ」という言葉は明らかに違う次元にある幸せだと思います。

前者は明らかに身体的に衰え痛みを薬を抑え、海外旅行をする夢も絶たれ、自分が没頭したかった彫刻や絵画もできなくなった、一般的に「不幸のどん底」であるのにも関わらず、幸せであると認識している。我が父ながら凄まじいものだと思いました。

後者は肉体的に薬の力によって幸福感を得ている。薬が切れればその幸福感を思い出しても、得られず同じ状況を繰り返さなければ得られない幸せ。消耗品のような幸福です。

父はガンが判明してから余命半年と言われたので、そこからほぼ月一回は実家へ帰り、死や生、喜びや恐怖感、哲学や宗教などについて2年余話してきました。

『病院で相部屋になった時、同室の患者が昼間医者や看護師、家族といる時には平然と過ごしているのにも関わらず夜には一人で泣いている。病気になったのがどれだけ不幸であるかを自分に語ってくる。』

『明日生きていると思うことは、永遠に自分が生きていると思うことと同じだということがわかった。』

『キリスト教っていうのは若い宗教だね。仏教はもっと大人な宗教だね。』

などと、名言が溢れ出ていました。

そんな父が亡くなった時、僕はなぜか余り悲しい気持ちが芽生えず、ああ、亡くなったか。と思っただけでした。涙一つ出なかったので、おそらくヒトデナシなのかも知れませんが、死ぬのは不幸なことなのかな?とも思ってしまうのです。幸福も不幸も生きることとは全く別物の幻想のようなものだとも考えてしまいます。

そう考えると、幸福や不幸とは人情であると思います。

他人の幸福を見て羨ましいと思うのも人情ですし、物質的に豊かになったらもっと快適に過ごしたくなるのも人情です。生きがいや感謝を求めるのも人情ですし、そんな人情とうまく付き合える事が幸福で、うまく付き合っていないと不幸なのかも知れないと今回の対話で思いました。

追記1

以前のオン会の懇談会で『新しい宗教を創る』話をしましたが、ウチの父は宗主としては向きませんね。Tomioさんが『劇的な死を迎えなければならない』とおっしゃいましたが、僕はこれを追加します。『他人の不幸を背負った上で本人も不幸でないといけない。不幸は共感できるけど、幸福は共感できないもの。』

追記2

本文とはあまり関係ありませんが。

病気になってから作った陶器の彫刻です。はじめての陶器の大型の彫刻で、相当不満な出来だったようですが、ちょうど手元に写真があったので墓標がわりに。

これは病気の前ですね。後ろのトルソーはもっと若い時のものです。

離れて住んでいる悲しみで、母が確保している以外の彫刻や絵画は他の兄弟にすでに奪い去られてしまいました。これらの彫刻は俺のものじゃと宣言しています。

井ノ上 裕之さんのプロフィール写真

いつもながら、面白く楽しいお話でした。まずは、お礼を述べさせてください。

会が終わった後、私はいったい何をやり遂げてきたのだろうと考えました。会のさなかには思い浮かばなかったのですね。

いえ、「やり遂げてきた」というのなら、なくはないのです。樵をやっていたことは、私にとっては「やり遂げてきたこと」だと思ってはいて、自身の大きな拠り所になっています。けれど、それは「終わったこと」であって、今の生活とつながっているわけではない。生き方に大きな影響があるのは確かだけど。

ああ、そういえば、と思い出したのが、「本の書き写し」でした。私、本をいろいろ読みますが、本気で読んでみようと思う本は、いつからか、自身で書き写すことにしました。手書きではなくて、キーボードで打ち込むのですが。

どのくらい「打ち込み」をしたのか、数はすぐに思い当たりませんが、すぐに思い当たらない程度の数は、そのようにして読んだということです。まあ、2~30くらいかな?

実は今、この本の「打ち込み」をやっています。

プリゴジンとスタンジェールの『混沌からの秩序』。読むにはずいぶん以前に読んでいましたが、プリゴジンのお弟子さんだというTomio先生とお話しさせてもらえる機会を得て、改めて読み始めると、これが前に読んだときよりもずっとずっと面白い。それで「打ち込み」を始めてしまいました。

2ヶ月ほど前から少しずつ打ち込んでいって、今はちょうど

いつもながら、面白く楽しいお話でした。まずは、お礼を述べさせてください。

会が終わった後、私はいったい何をやり遂げてきたのだろうと考えました。会のさなかには思い浮かばなかったのですね。

いえ、「やり遂げてきた」というのなら、なくはないのです。樵をやっていたことは、私にとっては「やり遂げてきたこと」だと思ってはいて、自身の大きな拠り所になっています。けれど、それは「終わったこと」であって、今の生活とつながっているわけではない。生き方に大きな影響があるのは確かだけど。

ああ、そういえば、と思い出したのが、「本の書き写し」でした。私、本をいろいろ読みますが、本気で読んでみようと思う本は、いつからか、自身で書き写すことにしました。手書きではなくて、キーボードで打ち込むのですが。

どのくらい「打ち込み」をしたのか、数はすぐに思い当たりませんが、すぐに思い当たらない程度の数は、そのようにして読んだということです。まあ、2~30くらいかな?

実は今、この本の「打ち込み」をやっています。

プリゴジンとスタンジェールの『混沌からの秩序』。読むにはずいぶん以前に読んでいましたが、プリゴジンのお弟子さんだというTomio先生とお話しさせてもらえる機会を得て、改めて読み始めると、これが前に読んだときよりもずっとずっと面白い。それで「打ち込み」を始めてしまいました。

2ヶ月ほど前から少しずつ打ち込んでいって、今はちょうど、第Ⅲ部「存在から生成へ」へ入ったところ。第Ⅱ部の、化学と生物学の「ゆらぎを通しての秩序」を踏まえて、量子力学のところ。古典力学で中心的な役割を果たしていたハミルトニアンが量子力学では演算子となる形で中心的な役割をひきついだこと。ハミルトニアンの中身が正準方程式からシュレーディンガー方程式になり、そのシュレーディンガー方程式が時間に対して可逆的で決定論的であること。

数学の世界の只中から一歩引いて、このように俯瞰した文章を読み進めていくと、科学というものがどのように言語化されていったのがよくわかります。そして、このことは、私が今、最も関心を出している

「言葉とはなんだろう?」

という問いと重なるような気がします。指がキーボードを叩く速度でゆっくり読み進めるからこそ、時間的な余裕が生まれて、想像を広げることができるように思います。

そういえば、次回の哲学対話は奇しくもテーマが「言葉」ですね。

フライングになってしまうかもしれませんが、書いてしまいます。

言語は文章を単位に記述されます。数学も言語ですから、記述単位がある。それがハミルトニアンだとすると、文章を構成する要素である言葉(単語)に相当するのが、シュレーディンガー方程式であったり、正準関数であったりするのではないか。そして言葉とは、(人間が備えている)感覚という波動が客観世界へと生成する「粒子化」に相当するのではないか。

突飛でもない想像でしょうけれど、こういった想像をしているのがとっても面白いのですね。

.

そういえばTomio先生は、今回のミーティングでは最後の方に、いつも繰り返し述べられていることを仰いました。

「専門家でない人たちと話をするのが楽しい」

遠く離れたように思われる認識が、なぜか結びついて、新たな見識を生み出すことがある。それが面白いく楽しいと言われるのですね。そして私たちは、そのおこぼれをいただいて、これまた存分に楽しませてもらえる。

『混沌からの秩序』が順を追って記述していっているのは、平衡状態を保たれている近しい関係から、関係性が遠くなっていたときに平衡状態が崩れ、ついには非線形の関係性へと遷移していく物質の世界の把握の歴史です。遠く離れた非線形な系では、混沌(カオス)のなかから思いもよらぬ秩序が立ち上がってくる。

これはあくまで物質世界の話ですが、そこに留まらない可能性を秘めていると思われるのが、この非線形な複雑性の可能性。でなるならば、言葉の世界もまた、「混沌からの秩序」なのではないかと考えさせられてしまいます。

たとえ馬鹿げた空想であったとしても、これは本当に楽しいです。

次回は、どのような楽しみのタネをいただけるのか。一ヶ月が待ち遠しいです。笑

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いつもいつも的外れな感想を書き連ねてしまうワタクシですが、今回は飛び切りです。心の広いTomio先生ならば、笑って読んでいただけるであろうと信じて、書き記してみます。


実は私、週に一回一時間のペースで、小学校一年生とZoomで対話しています。家庭教師とかではありません。対話をしているだけ。単なる対話でもないのですけど。

7~8割、私は聞き手です。一年生にだって、話したいこと伝えたいことはたくさんあるんです。大人からすれば、彼女が伝えたいことはほぼ既知のことだったりするんだけど、そこは置いておいて、初めて聞いたように聞く。

前回は、彼女の話の半分が(商品名)「ネジはぴ」でした。

組み立て方やドライバーの使い方をいろいろと説明してくれました。笑

知識に重きを置くと既知ですが、「彼女の体験」に重きを置くと初めてですから、何も難しいことではありません。

では残りの2~3割はというと、これは私のフェーズです。彼女が話していることに乗っかって、「ふ~ん、じゃあ、こんなのは知ってる?」といった感じで、画面共有して動画をみたり、ホワイトボードに一緒に絵を描いてみたり。

.

この時間が彼女にとって楽しい時間だったかどうかは、あとでお母さんに聞いてみるとわかります。楽しい時間であれば、今度はお母さんに一生懸命に伝えようとするからです。楽しかったことを、具体的に。


こんな話をなぜ持ち出したのかと言いますと、ふと、この一年

いつもいつも的外れな感想を書き連ねてしまうワタクシですが、今回は飛び切りです。心の広いTomio先生ならば、笑って読んでいただけるであろうと信じて、書き記してみます。


実は私、週に一回一時間のペースで、小学校一年生とZoomで対話しています。家庭教師とかではありません。対話をしているだけ。単なる対話でもないのですけど。

7~8割、私は聞き手です。一年生にだって、話したいこと伝えたいことはたくさんあるんです。大人からすれば、彼女が伝えたいことはほぼ既知のことだったりするんだけど、そこは置いておいて、初めて聞いたように聞く。

前回は、彼女の話の半分が(商品名)「ネジはぴ」でした。

組み立て方やドライバーの使い方をいろいろと説明してくれました。笑

知識に重きを置くと既知ですが、「彼女の体験」に重きを置くと初めてですから、何も難しいことではありません。

では残りの2~3割はというと、これは私のフェーズです。彼女が話していることに乗っかって、「ふ~ん、じゃあ、こんなのは知ってる?」といった感じで、画面共有して動画をみたり、ホワイトボードに一緒に絵を描いてみたり。

.

この時間が彼女にとって楽しい時間だったかどうかは、あとでお母さんに聞いてみるとわかります。楽しい時間であれば、今度はお母さんに一生懸命に伝えようとするからです。楽しかったことを、具体的に。


こんな話をなぜ持ち出したのかと言いますと、ふと、この一年生とTomio先生が同じではないかと思ったから。もちろん人生経験の積み重ねは圧倒的に違います。にもかかわらず、本質的な部分は同じではないか。

学んで楽しかったことを、一生懸命に、しかも楽しく伝えようとしているという点において。

私たちがTomio先生から聞かせていただく話は、未知の話です。その点も小学一年生とは当然違います。未知の話をお伺いすることは、勉強になります。でも、本当に私たちが聞きたいと思っているのは、未知の話よりも「学びは楽しい」という感触なのではないかという気がします。


私は勉強と学習は似て非なるものだと考えています。現在、私たちが教育と考えているのは勉強

のほうです。勉強は、書いて字の如く「強いて勉める」なんですね。楽しくない。

対して学習は楽しいはずです。かの孔子が残した言葉を弟子たちが記録した『論語』の冒頭に記されているのも、「学びは楽しいのだ」ということです。

子曰
 學而時習之 不亦說乎
 有朋自遠方來 不亦樂乎
 人不知而不慍 不亦君子乎

「學而時習之 不亦說乎」は英訳すると、

Learn, and over time, you will get noticed.
It's a lot of fun.

といった感じだと思います。

学んで時間が経って、ふと気づきを得る。これはとても楽しいことだ。
それは、思いがけず遠方の友が自ら訪ねてきてくれて時のような楽しさだ。
この学びの楽しさを知らない人に接しても心を苛立たせずにいられるのが、健やかに育った人(君子)というものだ。

『論語』學而第一の冒頭の一文は、こんなような意味だろうと私は解釈しています(一般のものとは、いささか異なります)。

「人が育つ」ということは、学んでいるということです。その「学び」が楽しいものであるなら、「人として生きる」ことも楽しいのが当然です。

この当然を、私たちはTomio先生から伝えてもらっているのだと思います。

脚注

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また盛り上がりましたねぇ。いつも開催、采配をありがとうございます、和哉さん、Maiさん。

私がメンションして、池田さんがもっと詳しく説明してくださった漫画は、よしながふみ作「大奥」です。「男子のみを襲う謎の疫病が国中に蔓延し、男子の数が激減した江戸時代の大奥を舞台にしたSF時代劇。将軍職をはじめとした主な役職を女性が受け継ぎ、男性は希少な“種馬”として大切に育てられるようになった日本で、代々の将軍とその周囲のさまざまな絆が描かれてきた。」というストーリーは、ジェンダーの役割について熟考させられるものです。ついに今月2月に最終巻の19巻が出るようです。

Maiさんのお勧め「パンツが見える。 羞恥心の現代史 」、是非読んでみます👍 なにをもって恥ずかしいと感じるのか、それがジェンダーギャップにもたらす影響を別視点で考えるのも面白そうですね。

江原さんの仰っていた「オステリー」。新しい単語を教えていただいて、すっかりお気に入りです。

まりなさんご指摘の、Twitterなど文章上のコミュニケーションの世界では、アイコンや言葉遣いに女言葉を多用しない限り、男として取られることがある気づきの体験談はとても興味深かったです。

女性だけでなく男性も、男性ゆえのプレッシャーがあり、そこから逃れる手段がない・・・女性が結婚・出産・育児を理由に社会から一線を離れるオプションが男性にはない・・・という悲壮感もとて

また盛り上がりましたねぇ。いつも開催、采配をありがとうございます、和哉さん、Maiさん。

私がメンションして、池田さんがもっと詳しく説明してくださった漫画は、よしながふみ作「大奥」です。「男子のみを襲う謎の疫病が国中に蔓延し、男子の数が激減した江戸時代の大奥を舞台にしたSF時代劇。将軍職をはじめとした主な役職を女性が受け継ぎ、男性は希少な“種馬”として大切に育てられるようになった日本で、代々の将軍とその周囲のさまざまな絆が描かれてきた。」というストーリーは、ジェンダーの役割について熟考させられるものです。ついに今月2月に最終巻の19巻が出るようです。

Maiさんのお勧め「パンツが見える。 羞恥心の現代史 」、是非読んでみます👍 なにをもって恥ずかしいと感じるのか、それがジェンダーギャップにもたらす影響を別視点で考えるのも面白そうですね。

江原さんの仰っていた「オステリー」。新しい単語を教えていただいて、すっかりお気に入りです。

まりなさんご指摘の、Twitterなど文章上のコミュニケーションの世界では、アイコンや言葉遣いに女言葉を多用しない限り、男として取られることがある気づきの体験談はとても興味深かったです。

女性だけでなく男性も、男性ゆえのプレッシャーがあり、そこから逃れる手段がない・・・女性が結婚・出産・育児を理由に社会から一線を離れるオプションが男性にはない・・・という悲壮感もとても理解できる気がしました。

何を持ってフェアとするか。Quoraでならではの論点を知的に交わすことができ、とても有意義な時間をありがとうございました。

またやろ。😉

Quora Userさんのプロフィール写真

お待たせいたしました。当日のQ&Aをまとめました。(未回答だった質問への回答も追加してあります)当日はなんと録画に失敗しましたが、感想を寄せて下さった参加者様のおかげで記憶がつながりました。心から感謝申し上げます。

■文字起こし

希望する方が多かったので主要な会話部分を書き出しています。また、当日は時間切れになった質問への回答も記載しています。

※未回答だった質問への回答は、当日もお越し下さった「れおな先生」が教えて下さいました。(2021年4月30日22:36)

■れおな先生:こびナビ 幹事 岡田 玲緒奈 医師

日本小児科学会専門医。千葉大学医学部医学科卒。千葉県にて初期臨床研修、小児科専攻医研修を経て小児科専門医を習得。以後、小児血液・腫瘍分野で研鑽を積む。2018年 千葉大学大学院 入学、マイクロRNAを起点としたがん遺伝子研究に携わる。2021年3月 卒業、博士(医学)取得。2019年8月 千葉大学医学部附属病院 次世代医療構想センター 特任助教として着任、小児の医療政策研究に従事する。


「新型コロナなんでも相談会」当日の質問と回答

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当日に回答済みのQ&A

> Q アレルギーがあっても大丈夫?

>今回のアナフィラキシーはそもそも頻度が決して多くありません。

ファイザーで100万回に4.7回です。抗菌薬だと1

お待たせいたしました。当日のQ&Aをまとめました。(未回答だった質問への回答も追加してあります)当日はなんと録画に失敗しましたが、感想を寄せて下さった参加者様のおかげで記憶がつながりました。心から感謝申し上げます。

■文字起こし

希望する方が多かったので主要な会話部分を書き出しています。また、当日は時間切れになった質問への回答も記載しています。

※未回答だった質問への回答は、当日もお越し下さった「れおな先生」が教えて下さいました。(2021年4月30日22:36)

■れおな先生:こびナビ 幹事 岡田 玲緒奈 医師

日本小児科学会専門医。千葉大学医学部医学科卒。千葉県にて初期臨床研修、小児科専攻医研修を経て小児科専門医を習得。以後、小児血液・腫瘍分野で研鑽を積む。2018年 千葉大学大学院 入学、マイクロRNAを起点としたがん遺伝子研究に携わる。2021年3月 卒業、博士(医学)取得。2019年8月 千葉大学医学部附属病院 次世代医療構想センター 特任助教として着任、小児の医療政策研究に従事する。


「新型コロナなんでも相談会」当日の質問と回答

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当日に回答済みのQ&A

> Q アレルギーがあっても大丈夫?

>今回のアナフィラキシーはそもそも頻度が決して多くありません。

ファイザーで100万回に4.7回です。抗菌薬だと100万人に200人とも言われています。インフルエンザだと100万回に1回なのでそれよりは多いです。

さらに、アレルギーのある人は沢山いらっしゃる側からみると、やはりアナフィラキシーの頻度はごく低いことがわかります。

> Q ワクチンを打った後の発熱と、風邪などにかかった発熱とどう区別すればいいの?

>ワクチンの副反応での発熱はせいぜい2-3日と言ったところです。長くなるようならば他のものを疑った方がよいでしょう。
他に咳を伴うなどあれば、それはワクチンの副反応でなく何かの感染症などが疑わしくなります。

> Q ワクチン接種後の風邪のような症状は重症化しない?肺炎になるとか?

>風邪のような、といわれている副反応は、全身性のもので、発熱や倦怠感などです。これは免疫がきちんと働いているという傍証にもなります。

今回のワクチンでウイルス全体が形成されるようなことは絶対にないので、肺炎を起こすようなことはありません。

> Q  ワクチン接種後、数日経ってからも副反応って出る?

>3日以内に出現し、数日以内に消退するのが通常です。稀に、接種後7日後あたりで接種した部位の局所の反応が遅れて起こる症例の報告があります。

> Q 副反応で日本人は発熱する人が多いらしいが?

>これはズバリ37度5分問題と言います。日本人は37度5分からが「発熱」海外(欧米?)は38度からが「発熱」と捉えている。報告する際の基準が違うからです。(そもそも水銀体温計の37度のところが赤かったのは体温計ができた当時の平均だったからです)

> Q 他のワクチンを打たなきゃいけなくなった時は?

> 緊急性など時と場合によるが、基本2週間開けて下さい。

> Q ワクチン接種後、どのぐらいの期間効くの?
> 6ヶ月経って91%以上効いてます。

> Q 変異ウイルスには効かない?

>変異ウイルスに対しても(ファイザー)イギリス型に9割効いてる。(ワクチン接種後の人の免疫力って、抗体云々だけじゃなく、もっと複雑に良く出来てる!解明されてないことが一杯ある) 感染させ合ってるうちにどんどん変異するからみんながなるべく早く打つべし!

> Q 太っている人には筋肉に届くように長い注射針が必要ですか?

>正しい場所に正しい方法で接種する限り、他の方と同じ注射針で大丈夫。海外でも全員同じ注射針の国しか知らない。逆に深く差し過ぎて例え骨にあたっても問題ない。

(江原朗先生より)皮下の予防接種をするとよく針が骨にあたります。しかし、点滴で血管に針が入らないときに最終手段として骨髄に点滴針を刺して水分を補給する手技もあります(私は実施したことがありません)。ですので、骨にあたることは問題ないように思えます。

骨髄輸液

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当日は未回答だったQ&A(当日の時間内に拾えなかった質問)

> Q ワクチンが獲得免疫を刺激してB細胞に抗体を作る指令を送り、キラーT細胞に殺す指令を送るところまでわかりました。もし、ワクチンが90%有効と言う話があるとすると、この場合、10%の人の樹状細胞には取り込まれないということですか?

>そもそも、ワクチンの90%効果という話は、疫学的な概念であり、個々人のミクロの現象に当てはめることは正しくありません。この辺りは難しいところです。なお、どうしても抗体がつかない人というのがどのワクチンにもあって、この仕組みはまだよくわかっていません。

> Q ワクチンが効かない人は、どの種類のワクチンも効かないのですか?

>医療従事者は元々色々な感染症に対して抗体検査をして、抗体のついていないものについてはワクチン接種を推奨されます。

例えばおたふくかぜや水ぼうそう、麻疹、風疹などです。これのうち、どれかだけがどうしてもつかないという人もいます。

いずれも生ワクチンで強力に免疫を誘導するはずなのですが…今回のmRNAワクチンにせよ、ウイルスベクターワクチンにせよ、新規機序のものであり、その辺りのことはさらにまだまだ未知です。

> Q mRNAワクチンが人に使われるのは初めてですか?

>その通りです。ただし、20年近く研究されてきたプラットフォームです。

※mRNAワクチンの歴史について先日まとめた回答を最後に載せています。

> Q ワクチンを肩に打つと、肩の筋肉が痛くなるという副反応はどういう機序が考えられますか?別の筋肉注射でこのような症状は出ますか?

>免疫が活発に動くと、そこで「炎症」が起こります。これは免疫細胞の分泌する物質による部分が大きいです。

炎症の四徴候というのが昔から言われていて、発赤、熱感、腫脹、疼痛がその4つです。まさにその通りのことが局所に起こります。

ワクチンの狙い通り免疫が働いていることがわかります。

> Q 細胞がやっつける力が強くなるというのはキラーT細胞が増えるということですか?

>これは簡単には言えないのですが、その病原体に特異的に反応するT細胞の増加や、B細胞による特異的な抗体産生がなされるようになる、と考えてください。

> Q  RNAとDNAの違いはなんですか?

>RNAはリボ核酸、DNAはデオキシリボ核酸の略です。

いずれもリボースに核酸がくっついたものなのですが、DNAの場合はデオキシ、つまりリボースの炭素5個につく水酸基(-OH)のうち1か所から酸素がなくなっています。

少し難しくなってしまいましたが、DNAの方が安定であるということが重要です。私たちの遺伝情報の大もとはDNAにかかれています。保存が効くからです。

そこから場面場面で必要なタンパクを作るために、一部だけコピーをとります。それがRNAです。この場合タンパクを作った後はさっさと消えて欲しいので、RNAのほうが便利だということになります。

> Q  アレルギーの経験があるかと聞かれるとき、花粉症とペニシリンなどの経験の違いはあるのか?ありません。アナフィラキシーでなければいずれも関係ありません。

>ペニシリンでアナフィラキシーを起こしたことがあっても接種できますが、接種会場で30分経過観察です(通常15分)。

ポリエチレングリコールの含まれていそうなもの、例えば大腸内視鏡の前の下剤でアナフィラキシーを起こしたとか、化粧品でアナフィラキシーを起こしたとかいったごく稀な既往がなければ、接種可能です。

> Q  注射をする前に、ワクチンで皮膚をこすって、反応がてるかどうかを見て、アレルギー反応を調べることは可能ですか?

>プリックテストといって、これに似た検査はあります。

薬液などを皮膚に付けて、先端のとがったものでつつきます。しばらく置いて反応を見ます。ただし、今回のワクチンに対するこの検査の有用性は不明ですし、みなに行うというのも非現実的です。

とにかく稀です、アナフィラキシーは。これまで何も気にせず様々な薬を飲んだりしてきませんでしたか?

今回のワクチンをそこまで特別扱いせずともよいと考えています。

> Q  副作用はなぜ出るのか?

>第一に理解する必要があることとして、風邪をひいた時に出る熱は、一般にウイルス自体が引き起こすものではなく、免疫細胞が分泌する物質(サイトカインなどといいます)によって起こります。

これは、平熱の37℃よりも、40℃近い温度の方が、ウイルスを排除するために免疫システムが働くのに有利だからと考えられます。

このため、病原体がからだに侵入したあと、最初期に出会う免疫細胞から色々な物質が分泌されます(からだ全体に警報が発令されるようなイメージです)。これが、脳にある体温を調節する部分に働きかけて、からだの設定温度を平熱から、38-40℃に変更しなおします。これによって体温が上がって、免疫系が病原体と有利に戦うことができるようになります。

局所の副反応としての接種部位の痛みや腫れなどについても、免疫が活発に働いている状態(炎症がおきている)を示しています。ですから、よく起こる副反応として知られているものは、ワクチンの本来の働き—免疫系に「練習試合をさせる」ことがきちんと起こっていることを示していると言えるでしょう。

ただし、これが起こらなかったからといってワクチンが効いていないということではありませんので、その点にはご注意いただければと思います。

> Q  なぜ2度打つのでしょうか?

>この質問はよくいただくのですが、小児科医からするととても不思議な質問です。

ワクチンは複数回接種するものの方が多いのです。1回目ではじめて病原体を免疫が記憶し、2回目で復習することで、確認された効果が95%ということになりますので、2回の接種が必要です。

> Q  筋肉痛、寒気などのワクチンの副反応は、新型コロナの患者の症状と同じですか?

>これは非特異的な全身性の症状で、感染症ならなんでもこういった症状がありえます。

インフルエンザでもありますし、新型コロナでもこうした症状がある方はいらっしゃいます。

大事なことは、上の回答にある通り、これは病原体自体が引き起こす症状ではないということです。

> Q  アジア人は新型コロナに似たコロナウイルスにかかったことがあるから、かかりにくく症状が軽いのだという話があるのですが、それについての知見はありますか?

>そうしたことの根拠は全くありません。

そういう考えで油断した結果が現在のインドの悲惨な状況だと言われています。

インドの大変な状況は、全く他人事ではありません。

インドもBCG説、アジア人説などの、コロナに対する楽観的な姿勢があり、日本と似たところがあります。

日本もこのまま油断し続ければ変わりない状況になる可能性は充分あります。

> Q 周りの70%の人がワクチン接種をしたら、感染の危険が下がるので、自分はワクチンをうたなくても良いですか?

>打ちたくない理由をお聞きしないと何とも言えませんが、みなが同じ考えでいたらその70%に到達しないということは重要です。また、ワクチンパスポートが現実的になってきましたので、信条により接種していない等の場合、海外渡航などにおいて様々な制限がかかることは覚悟する必要があります。

私はワクチンパスポート等について是非を述べる立場にありませんが、現実的にはこの全世界的なパンデミックの状況で、避けられないことだと思います。

> Q 南アフリカ型・イギリス型・ブラジル型の3種混合ワクチンはありますか? 今後作られますか?

>南アフリカ型と言われる、B.1.351変異ウイルスに対するmRNAワクチンは現在米国で治験をしているところです。

今後、混合ワクチンにするのか、あるいはブーストとして、すなわち例えば3回目として変異ウイルス対策をしたものを接種することになる可能性はあります。

> Q 新型コロナウイルスは、脳幹を通り抜けますか?(脳炎を起こす可能性はありますか?)

>これについては私は詳細には把握していないのですが、脳炎の報告はあり、血液脳関門を突破できる可能性が指摘されています。

> Q 京都大学のウイルス専門家が「mRNAワクチンは危ない」と言っている理由は何だと思いますか?(https://twitter.com/takavet1

>あの方が何を持って誤ったことを含め発信し続けているのかは私にはわかりません。しかし、そういう方は他にも沢山いらっしゃいます。

> Q 接種会場でアナフィラキシーショックがあった場合に使用するエピなど、現場の準備は十分なのでしょうか?

>厚労省の手引きにも準備するように記載があり、その点は問題ないはずです。

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以上です。長文を読んで下さりありがとうございました。「新型コロナウイルスなんでも相談会」は今後も継続して開催する予定です。


■mRNAワクチンの歴史についてまとめた回答です

4/2(金)に開催した「新型コロナウイルスなんでも相談会」の告知文

■関連サイト

こびナビ - COV-Navi
COV-Navi
山田 洋平さんのプロフィール写真

サイトウノブコさんの回答と同様、Tomioさんからお聞きする研究の態度は創作と同じだと思います。Tomioさんの勉強会や数多くの投稿は感覚的にしか捉えられていなかった世界を見事に言語化していただいているので、私にとっては地図や羅針盤を与えられていると同時に、自身の活動の答え合わせをさせていただいているようなものです。

直感が論理を生み出し、一つの世界があらわれる経験が最近ありました。物理学と芸術の違いはあれ、共通するものがあると思います。

これは昨年私が作った作品の写真の一部です。

創作過程で作品に欠けているものが何かはわからないけれど確実にある!と直感が言っていました。そこで見つけ出したのが、上記の写真のメトロノームです。メトロノームであるとわかった時点で作品ができたと思いました。定義や問題が明らかになった瞬間です。

上記の写真で丸い金属は三昧琴(ざんまいきん)という楽器です。本来バチで叩いて音を出す楽器ですが、この作品では壁に滴る水を三昧琴に当てて音を出しています。一方メトロノームはバネの力によって任意のテンポで音が鳴る仕組みです。

以下の文は釈迦に説法、孔子に論語、河童に水練ですが、恥を忍び、地面にひれ伏しながら書きます!


この2つの音は異なる時間の概念を表現しています。

メトロノームは一定のテンポを刻むために目的を持って作られており、その音は永遠不変の周期運動によって表される音です。時計

サイトウノブコさんの回答と同様、Tomioさんからお聞きする研究の態度は創作と同じだと思います。Tomioさんの勉強会や数多くの投稿は感覚的にしか捉えられていなかった世界を見事に言語化していただいているので、私にとっては地図や羅針盤を与えられていると同時に、自身の活動の答え合わせをさせていただいているようなものです。

直感が論理を生み出し、一つの世界があらわれる経験が最近ありました。物理学と芸術の違いはあれ、共通するものがあると思います。

これは昨年私が作った作品の写真の一部です。

創作過程で作品に欠けているものが何かはわからないけれど確実にある!と直感が言っていました。そこで見つけ出したのが、上記の写真のメトロノームです。メトロノームであるとわかった時点で作品ができたと思いました。定義や問題が明らかになった瞬間です。

上記の写真で丸い金属は三昧琴(ざんまいきん)という楽器です。本来バチで叩いて音を出す楽器ですが、この作品では壁に滴る水を三昧琴に当てて音を出しています。一方メトロノームはバネの力によって任意のテンポで音が鳴る仕組みです。

以下の文は釈迦に説法、孔子に論語、河童に水練ですが、恥を忍び、地面にひれ伏しながら書きます!


この2つの音は異なる時間の概念を表現しています。

メトロノームは一定のテンポを刻むために目的を持って作られており、その音は永遠不変の周期運動によって表される音です。時計の表す時間と同じ、力学的時間を表現しています。

一方、三昧琴の音は水滴が三昧琴に当たる事によって音がなります。その音は乱雑さを内包しており、初期条件や環境、水量の変化・ゆらぎによって変化します。それは即ち、変化によって奏でられる音、白髪が増えたから年をとったと感じる時間と同じ、熱力学的時間を表現しています。

観客はその両方の音を聞きながら作品を鑑賞します。観客が聞いていたのはメトロノームの音か、三昧琴の音か、どの時間概念の枠組みに立っていたのか、わかりません。その時々で自分が聞きやすい音(=時間)を選びながら見ていたと思います。人間の営みとは力学的時間、熱力学的時間の両方をゆらぎながら為されるものなのかもしれません。

この舞台設定の裏には実は一つの主張(妄想・仮説)が隠れています。水滴は時間の素となる物質です。そのままでは時間は認識できません。そこに三昧琴(=宇宙)が置かれることによって、時間は認識され、音を奏で始めます。水滴の位置、量はランダムなので、三昧琴毎に鳴る音の速度、即ち時間の流れ方は異なります。それはその宇宙の個性であると共に、時間は宇宙に先立って存在しており、さらに宇宙によって時間の流れは異なるという主張です。

作品では宇宙=人・書、時間=音という設定をしてあるので、人が生まれる前から時間は存在しています、人によって時間の流れ方は異なります、人には個性があります、という主張です。

なんじゃ、当たり前じゃないか。と思うかもしれませんが、複雑な定義や前提を持って始まり、たどり着いた先が当たり前の事だった時、私はそれが作品が正しく展開された証拠だと感じるのです。


ここで話を戻します。

*上記の時間に関する論理はTomioさんの投稿からの受け売りですので、なんのオリジナリティもありませんが、メトロノームと三昧琴の音の違いと、力学と熱力学における時間の捉え方の違いに共通項を見出した、という点にオリジナリティを見出していただければと思います。叱咤は甘んじてお受けします・・・。

上記の考えがあってからメトロノームを用意したのではなく、メトロノームが用意された後から上記の考えを組み立てていったのです。

それまで作品にかけていた時間の全てが、メトロノームの必要性という直感を生み出し、その直感が上記のような演出上の論理として現れたわけです。

このように、準備ができている人に直感は訪れるものだと思います。チャンスの神様は前髪しか無い。といいますが、直感の神様も前髪しかないかもしれません。

直感が湧いて出るように日々研鑽を積んでいきたいと思います。

今回もありがとうございました。次回も楽しみにしております!

*話に出た作品の写真をいくつか。ご笑納ください。

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第二回目。という事で、いかがでしたか?と問われれば、「わかったー」と答えたいところですが。

これが全然わかんなかったーw と言わざる得ない。

本当は第一回目終了の二日後には本をゲットし、第二回目までには読破しようと思ってましたが・・思いの外邪魔が入りまして・・

三女が彼氏いなくて暇だとうるさく。GWに青森旅行に行きました。

諸悪の根源です。

仕事の合間の時間をかなりえぐられ・・実はこの旅行でも本は持って行ってたのですが。この23歳の体力で歩くペースにつきあってると、ホテルに戻った時は疲れ果てて寝てるだけです・・


まぁ、いいわけはいいとして。自分なりの理解を書いていくと。

散逸構造というものがあるらしい。というのはワカル。(なんでかはわからないけど)

確かに人間が存在することも、というか進化というもの自体を考えると(それを物理的に考えるのもどうかと思いますが)確かにそうだ。と思います。

そうではなくて、何が違うのか?

というスタート地点がわからないのです。

私の理解だと、物理の始まりはニュートンらしい。

ニュートンさんまでの人も色々な発見をしています。ケプラーさんとか。でも、ニュートンさんからが古典物理の始まりなんだそうです。

これは何が違うのか?といえば、ニュートンさんが【普遍的】に説明した事が【物理学】だからだ。

という理解です。

なので物理屋は【普遍的】でなければならず、それはまぁ結果として【系】を小さくせ

第二回目。という事で、いかがでしたか?と問われれば、「わかったー」と答えたいところですが。

これが全然わかんなかったーw と言わざる得ない。

本当は第一回目終了の二日後には本をゲットし、第二回目までには読破しようと思ってましたが・・思いの外邪魔が入りまして・・

三女が彼氏いなくて暇だとうるさく。GWに青森旅行に行きました。

諸悪の根源です。

仕事の合間の時間をかなりえぐられ・・実はこの旅行でも本は持って行ってたのですが。この23歳の体力で歩くペースにつきあってると、ホテルに戻った時は疲れ果てて寝てるだけです・・


まぁ、いいわけはいいとして。自分なりの理解を書いていくと。

散逸構造というものがあるらしい。というのはワカル。(なんでかはわからないけど)

確かに人間が存在することも、というか進化というもの自体を考えると(それを物理的に考えるのもどうかと思いますが)確かにそうだ。と思います。

そうではなくて、何が違うのか?

というスタート地点がわからないのです。

私の理解だと、物理の始まりはニュートンらしい。

ニュートンさんまでの人も色々な発見をしています。ケプラーさんとか。でも、ニュートンさんからが古典物理の始まりなんだそうです。

これは何が違うのか?といえば、ニュートンさんが【普遍的】に説明した事が【物理学】だからだ。

という理解です。

なので物理屋は【普遍的】でなければならず、それはまぁ結果として【系】を小さくせざるえないのでしょうけど、そりゃま、しょうがないじゃん?と思うのですが、そうであるが故に【可逆的でなければならない】というのが物理学の【縛り】なんだろうと思っています。

その前提で復習してみましょう。

熱力学 - Wikipedia

散逸構造がどーのこーの言う前に、熱力学ってなんだっけ?といえば?

まぁ書いてある通りなんだけど。

ハテ?時間の事なんてなんも定義されてないようにも思うんだが・・

とはいえ、たぶん、普遍的に語らねばならない物理学上の言葉では、時間tもプラスマイナスが必要なハズなんだけど、時間は+しかないよね?不可逆の可能性?を定義したかった??

という事がいいたかったから?????

なのかなと思ったけど、どうもそうではないらしい。時間はプラスとしか定義していない?

このあたりの感覚がまだおいついてないので全然わからなかかったです。

たぶん。線形にしか語ってないけど、非線形(非平衡)な状態でもある程度は物理学として語れる事もあるでしょ?という切り込みなのかなぁ? という理解でした。


録画が欲しいという意見には笑えましたがとても賛同できます。これを何百円かの世界で運営するのですから頭下がります。ありがとうございます。

でもま、一期一会ですね。続きは自分で頑張りましょうw


知る為に何を勉強するか論は、感動しました。私は幼少の頃から極度のめんどくさがりで、知らなければいけない事をわからないなりに読み進め、漢字を含めそれに必要な事【だけ】を勉強する習慣がありましたw おぉ!私のやり方を今初めて認めてもらえた。と思いました。

両親には、興味持った事【しか】勉強しない子と言われ続けてましたので。(いやその通りなんですけどw)


とりあえず、易者に祈りをささげつつ。なんかご高尚なお話を伺いましたレベルで申し訳ないですが。ありがとうございました。

宮内 諭さんのプロフィール写真

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。非常に楽しい時間を過ごすことができました!

「可能であれば推しアニマルのお写真を1枚ご準備ください」とだけ書いたにもかかわらず、皆様しっかりとスライドを準備いただいており、とてもとても感激しました。終了予定が22時30分だったにもかかわらず、実際に終わったのは24時過ぎという…笑。まだまだ話し足りませんでしたね。ぜひ第二回・第三回と開催できればと思います。


私はなんちゃってファシリテーターとして、推しアニマルである「ウォンバット」

と、そこから派生して有袋類の進化についてお話ししました。

有袋類は長い間、私たち有胎盤類の侵略を受けることなく、オーストラリアという隔絶した世界で独自の進化を遂げました。そこで起きたのが、「適応放散」「収斂進化」です。

有袋類がオーストラリア大陸に進出したとき、ほかの哺乳類は存在しなかったと考えられています。そのため、有袋類はさまざまな環境に広がっていきました(適応放散)。たとえば木の上をすみかとした有袋類は世代を重ねるにつれ、滑空するのに有利な膜を前肢と後肢の間に張り、できるだけ揚力を得られる体つきに進化していきました。結果的にこの種は、有胎盤類のモモンガとよく似た体形となったのです(収斂進化)。この種は現在、「フクロモモンガ」とよばれます。

こちらがフクロモモンガです。びっくりするくらいモモンガと瓜二つですよね。前

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。非常に楽しい時間を過ごすことができました!

「可能であれば推しアニマルのお写真を1枚ご準備ください」とだけ書いたにもかかわらず、皆様しっかりとスライドを準備いただいており、とてもとても感激しました。終了予定が22時30分だったにもかかわらず、実際に終わったのは24時過ぎという…笑。まだまだ話し足りませんでしたね。ぜひ第二回・第三回と開催できればと思います。


私はなんちゃってファシリテーターとして、推しアニマルである「ウォンバット」

と、そこから派生して有袋類の進化についてお話ししました。

有袋類は長い間、私たち有胎盤類の侵略を受けることなく、オーストラリアという隔絶した世界で独自の進化を遂げました。そこで起きたのが、「適応放散」「収斂進化」です。

有袋類がオーストラリア大陸に進出したとき、ほかの哺乳類は存在しなかったと考えられています。そのため、有袋類はさまざまな環境に広がっていきました(適応放散)。たとえば木の上をすみかとした有袋類は世代を重ねるにつれ、滑空するのに有利な膜を前肢と後肢の間に張り、できるだけ揚力を得られる体つきに進化していきました。結果的にこの種は、有胎盤類のモモンガとよく似た体形となったのです(収斂進化)。この種は現在、「フクロモモンガ」とよばれます。

こちらがフクロモモンガです。びっくりするくらいモモンガと瓜二つですよね。前肢と後肢の間の皮膜だけでなく、しっぽの扁平さも似ています。

「顔つきまで似てる!」という感想が上がりましたが、多分、茶色い模様は森林の中で目立たぬよう迷彩としての役割があり、三角形の顔は流線型として空気抵抗を減らし、大きな眼は、暗闇の中でも敵や餌をいち早く見つけるために発達したのではないかと思います(思いつきですが)。

でも、モモンガとフクロモモンガは、遺伝子レベルで見ると全く異なるところに位置します。自然による淘汰圧というのはすさまじいものがありますよね。有胎盤類と比較して有袋類が生み出せなかった種は、クジラのように完全に海に適応した種と、コウモリのように完全に飛翔できる種のみだと言われています。

この “進化の実験場”であるオセアニアの多様性を今後も守っていく必要があると再認識させられました。


皆様の発表も通して、「進化」というキーワードが、次の会のトピックになるなと感じました。

バードウォッチャーである藤岡 純治さんが挙げたハチクマの祖先は、多分、ハチに刺されまくってとても痛かったことでしょう。それにもかかわらず、諦めることなく勇猛果敢に戦いを挑み続けた結果、何世代も経るうちに、鱗のような強靭な翼と肢を手に入れるに至ったのでしょう。また、カッコウによる托卵という戦略が進化の過程で生まれたことも非常に興味深いです。

大岡 夏代さんが紹介した鹿(偶蹄目)が持つ4つの胃は、植物を消化するために動物がひねり出した”最適解”といえます。人間が野菜と果物だけで生活できるようになる日は来るのでしょうか…?

Quoraユーザー さんが挙げた「海に帰っていった哺乳類」であるクジラは偶蹄目と非常に近く、今では「鯨偶蹄目」といっしょくたにされています。海を優雅に泳ぐクジラとのんびり草を食む牛が同じグループだなんて、進化は面白いですよね。ちなみにクジラも胃を4つ持ちます。

Quoraユーザーさんが挙げたハダカデバネズミは、哺乳類で唯一の「真社会性動物」です。アリやハチが真社会性昆虫として進化したのは、雄が染色体を1本しかもたないという「半倍数性 」が原因ですが、なぜハダカデバネズミが真社会性を獲得したのか。これはとてもむずかしい問題です。

Quoraユーザー さんによる金魚は、まさに人為的な選択による品種改良の賜物ですよね。ヒトという種に気に入られるように進化したことで全世界に広がったという意味では、ホルスタインやブロイラーなどの家畜、そしてキャベツや小麦といった野菜にも繋がる話題で、こちらも語りだすと長くなりそうです 笑

Tokieda Yukinobu さん紹介のミーアキャットとサソリの関係は、「OJT」という形で遺伝子に依らない情報の伝達が行われる例として非常に興味深いものでした。

そして、今回の参加者だけが見たオスリスの悲劇の話。一番笑いましたww

Petrosky Tomio さんからは物理学者らしく「進化はどこまで数式で表せるのか」という非常に鋭い質問をいただきました。「進化ゲーム理論」はまさにそれを突き止めようとしている学問であり、「囚人のジレンマ」や「しっぺ返し戦略」については軽く話したものの、もう一度勉強しなおさないとなーと感じました。

一方で、Kenn Ejima さんが紹介した「スパイダーテイルド」は、本当に進化論で説明できるのかというほどの精巧な疑似餌を持っています。

動物が作る驚きの物とはに対するKenn Ejimaさんの回答

我々があずかり知らない”サムシング・グレート(大自然の見えざる力)”がこの世界をコントロールしているのではないか、そんな風にも思える議論でした。


自然選択が生み出す生物の多様性には目をみはるものがありますね。

また夜通し話せる日を楽しみにしています!!!

Petrosky Tomioさんのプロフィール写真

参加を申し込んでいたのに、参加できなくて残念です。一昨日、急に2度目のコロナワクチンの注射ができると聞いて急遽それをしてもらったら、昨日、今日と微熱の出る風邪のような副作用が出ました。オン会開催時間のギリギリまで容態の様子見をしていたのですが、大事をとって、ギリギリで参加を諦めました。本当はその5日前に注射をするはずだったのですが、テキサスの大寒波で停電や断水で街が完全に麻痺してしまい、遅れていたのです。予定外に突然注射の連絡が来たのでした。

参加者の皆さんの感想を読んでいると、Quoraならではの幅の広い話が出たのでは無いかとの印象でした。

その後、取り仕切り役のQuoraユーザーさんから

「世代によって意見が違うのも面白かったです」

との連絡を受けました。最近のポリティカル・コレクトネスの行き過ぎで、もの言えば唇寒し秋の風のマスメディアの言論封じに辟易とした人も増えれきた昨今です。ジェンダー問題なんて、そのマスコミの言論封じが最も露骨に出てくる分野だったので、何を言っても恨みっこなしの哲学対話の絶好なテーマだと思っていたのです。若い連中に向かって、お前ら間違っとるという老害発言ができなかったことが心の残りです。

次回の哲学対話にはまたぜひ参加したいです。

追記:コロナワクチンの副作用は1度目の注射よりも2度目の方が辛いです。皆さんもそう言っております。家内も一緒に打ちましたが、やはり苦し

参加を申し込んでいたのに、参加できなくて残念です。一昨日、急に2度目のコロナワクチンの注射ができると聞いて急遽それをしてもらったら、昨日、今日と微熱の出る風邪のような副作用が出ました。オン会開催時間のギリギリまで容態の様子見をしていたのですが、大事をとって、ギリギリで参加を諦めました。本当はその5日前に注射をするはずだったのですが、テキサスの大寒波で停電や断水で街が完全に麻痺してしまい、遅れていたのです。予定外に突然注射の連絡が来たのでした。

参加者の皆さんの感想を読んでいると、Quoraならではの幅の広い話が出たのでは無いかとの印象でした。

その後、取り仕切り役のQuoraユーザーさんから

「世代によって意見が違うのも面白かったです」

との連絡を受けました。最近のポリティカル・コレクトネスの行き過ぎで、もの言えば唇寒し秋の風のマスメディアの言論封じに辟易とした人も増えれきた昨今です。ジェンダー問題なんて、そのマスコミの言論封じが最も露骨に出てくる分野だったので、何を言っても恨みっこなしの哲学対話の絶好なテーマだと思っていたのです。若い連中に向かって、お前ら間違っとるという老害発言ができなかったことが心の残りです。

次回の哲学対話にはまたぜひ参加したいです。

追記:コロナワクチンの副作用は1度目の注射よりも2度目の方が辛いです。皆さんもそう言っております。家内も一緒に打ちましたが、やはり苦しんでいます。1度目でも軽いとはいえ副作用が出ている期間はインフルフルエンザのワクチンよりも倍ぐらい長かったです。注射後の腕の腫れも長引きました。でも今までいろいろなワクチンで熱が出ることはなかったです。今回の2度目の注射で家内も私も熱が出ました。でも、3日後には熱は引けました。

井ノ上 裕之さんのプロフィール写真

今回の感想を一言で言い表すとすると「進歩」です。

この世界はどのようにできているのか? 今回、Tomio先生が提示してくださったのはインド・ヨーロッパ・メキシコ(マヤ文明)・日本の4つの事例でした。

インドの世界観が量子力学が示す世界の姿に近い! これだけでも驚きですが、物理学者が、いえ物理学者だからこそ、その近似の驚きは大きなものになったのでしょう。

これが時計の針を100年巻き戻してみると、どうか? 100年前と言えば、量子力学はまだ発展の最中。シュレーディンガーの方程式もまだ提出されていません。今日の私たちが思い描く量子力学的なイメージはまだ確立されてはいませんでした。一方でインドの世界観は、ずっと以前に確立されています。

世界史的な視点で眺めると、100年はまだインドはイギリスの植民地です。第一次大戦が終わって反英闘争が本格的になり始めた頃。

そのような時代背景では、イギリスに生を受けたニュートンを祖とする近代科学が描き出すイメージが、自分たちが支配している植民地に息づく世界観に近似したものになるとは想像もつかないことだったでしょう。それが現代では、その近似が知的な悦びを提供してくれるようになっています。

大変な進歩だと思います。知的にはもちろん、もっと大きな意味において。

インドが量子力学的で、マヤは熱力学的。西洋科学が不変を追い求めてきたのに対して、日本では変化の世界観。といった具合

今回の感想を一言で言い表すとすると「進歩」です。

この世界はどのようにできているのか? 今回、Tomio先生が提示してくださったのはインド・ヨーロッパ・メキシコ(マヤ文明)・日本の4つの事例でした。

インドの世界観が量子力学が示す世界の姿に近い! これだけでも驚きですが、物理学者が、いえ物理学者だからこそ、その近似の驚きは大きなものになったのでしょう。

これが時計の針を100年巻き戻してみると、どうか? 100年前と言えば、量子力学はまだ発展の最中。シュレーディンガーの方程式もまだ提出されていません。今日の私たちが思い描く量子力学的なイメージはまだ確立されてはいませんでした。一方でインドの世界観は、ずっと以前に確立されています。

世界史的な視点で眺めると、100年はまだインドはイギリスの植民地です。第一次大戦が終わって反英闘争が本格的になり始めた頃。

そのような時代背景では、イギリスに生を受けたニュートンを祖とする近代科学が描き出すイメージが、自分たちが支配している植民地に息づく世界観に近似したものになるとは想像もつかないことだったでしょう。それが現代では、その近似が知的な悦びを提供してくれるようになっています。

大変な進歩だと思います。知的にはもちろん、もっと大きな意味において。

インドが量子力学的で、マヤは熱力学的。西洋科学が不変を追い求めてきたのに対して、日本では変化の世界観。といった具合に各地の世界観の違いを比較できるのも、その主軸に科学があるからでしょう。各地のさまざまな世界観を反映させることができるだけの多様性が科学の中にあるからこそ、各々の比較を妥当なものだと感じられるようになるのでしょう。

そう、今回のお話は、半分は科学の多様性についてのお話しでした。なので、多様性な世界観という間口が広くて取っ付き易いテーマであるのに、中身は奥が深くて底が知れないお話になっていたと思います。森羅万象を数学という厳密な言語によって記述していった結果として映し出された多様性の中から、統一的な法則を見出していこうとする営為の中に潜む矛盾とでも言いましょうか。その矛盾は営為そのものの中に潜む原理的なものなのか。あるい探究を続けていればいずれは解消できるものなのか。この深淵な問題を「古代人と科学者」という対比で示して見せてくださったのは、さすがと言うほかありません。この矛盾の際(きわ)に触れるものでした。

古代人も科学者も、もちろん後者の立場に立ちます。ただ方法論は違います。曖昧な自然言語と厳密な数学の違い。自然言語の曖昧さについては、重力とエントロピーのお話の中によく表れていたと感じました。

科学の厳密さの際(きわ)、線形の世界から非線形の世界へと進むことが可能になったのは、数学の手法としてライプニッツの方法論を採用したことが大きかったと考えます。この点については、以前Tomio先生から回答をいただいたことがありますので、紹介をさせていただきます。

ライプニッツがどのような思考をもとに記号を選んだのかは私ごときには見当もつきませんが、その背景にはライプニッツの思想があったことは疑うべくもありません。すなわち「単子論(モナド)」です。

モナドの思考は、アリストテレスやトマス・アクィナスなどが想定した「不動の動者」を彷彿とさせると同時に(このあたりは加藤和哉さんのご意見を伺いたいものです)、東洋系の言語論に通じるものがあるように思います。ヒンドゥーや仏教で言うところに「無」や「空」に通じていく哲理です。

その詳細を論じることはこれまた私ごときの手に余る問題です。なので直感としか申し上げることは出来ませんが、量子力学とインド世界観の近似は決して偶然てはなく、互いに底通する論理があるのだと思います。

「無」や「空」は自然言語の限界を超えていこうとする試み、それもパーソナルな形の試みだと私は考えていますが、数学における線形と非線形の際(きわ)もまた同様の試み、それもシステミックなもののように思われます。量子力学の観測問題など、まさに現象と言語の際を行くものでしょう。自然言語では個的になるものが数学ではシステミックになるのは、言語としての厳密性ゆえのことだという気がしています。

山田 洋平さんのプロフィール写真

『心で心を変えるのは難しい』

この一言に集約されていた気がします。私は元ダンサーですので、身体に宿る経験を重要視します。ダンスの指導はあまりしないのですが、理屈はいいからまず身体を動かして。身体を動かした中に答えはあります。というのが基本方針です。

創作を行う際にも大まかな方向性をつけたら、まず動いてもらいます。何が正解かはわからないけれど、何が失敗かは動かした後でわかります。動かなければ正解も失敗もわかりません。失敗を積み重ねた上に正解らしきものが見えてきます。たまに、屍を積み上げていかないと魂が宿らないんだよ、とも言います。自然と出てきた言葉ですが、言い得て妙だと思っています。

小さな事が小さな事だなんて、実は誰にも判断できない。まずやれる事からやる。古風な物言いかもしれないけれど、基本で奥義というものだと思っています。

やり遂げたら自分を祝う。やり遂げたことを形にする、言葉にする。というのも大切なことだと思いました。僕自身はまず10年以上階段の上り下りに神経を集中してきたことを祝います。

今回もありがとうございました!

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つい先ほど、「一行でもいいからオン会の感想を書く」ことが今年の目標に決まりましたので、がんばります。

最初の方で、”芸術作品に論理はあるか?”という問いが出されましたね。すぐさま私の中では「ある。」と答えが出ていましたが、実際どうなんだろう?何も考えずに描いた線も「アートだ」と誰かが言えばそうなる世の中ではあるし。

トミオ先生のお話を聞くようになってからなんとなく、研究と柄作りは似てる。と、思っていたのですが、昨日のお話を聞いていてもやはりそうでした。
特に、うちの工房は京友禅ではあるものの、一般的なものではなく、また、普通の工房のように”〇〇染め”といった手法、技術ありきのものづくりをしていないのでそのように感じたのではないかと思います。
決められた手法とは公式のようなものだと思うのです。

研究とは、まだわかってないことと向き合うこと。同じように、新しい作品とは、まだこの世にない世界を作り出す行為。
どちらも正解は自分で探すしかなく、その手掛かりは直感であり、直感の震源地はただただ自分の体験でしかない。その直感を論理的に補強して説得力のあるものに仕上げる。

先生は、最後の膨大な計算を「学生にやらせる」とおっしゃってましたが、私と振付家である洋平さんはそこからが本番なので、「自分でやらんのか~い!」と心の中で盛大に突っ込みを入れていたのは同時だったと思います。

ほかにも、参加者の方々の興味深

つい先ほど、「一行でもいいからオン会の感想を書く」ことが今年の目標に決まりましたので、がんばります。

最初の方で、”芸術作品に論理はあるか?”という問いが出されましたね。すぐさま私の中では「ある。」と答えが出ていましたが、実際どうなんだろう?何も考えずに描いた線も「アートだ」と誰かが言えばそうなる世の中ではあるし。

トミオ先生のお話を聞くようになってからなんとなく、研究と柄作りは似てる。と、思っていたのですが、昨日のお話を聞いていてもやはりそうでした。
特に、うちの工房は京友禅ではあるものの、一般的なものではなく、また、普通の工房のように”〇〇染め”といった手法、技術ありきのものづくりをしていないのでそのように感じたのではないかと思います。
決められた手法とは公式のようなものだと思うのです。

研究とは、まだわかってないことと向き合うこと。同じように、新しい作品とは、まだこの世にない世界を作り出す行為。
どちらも正解は自分で探すしかなく、その手掛かりは直感であり、直感の震源地はただただ自分の体験でしかない。その直感を論理的に補強して説得力のあるものに仕上げる。

先生は、最後の膨大な計算を「学生にやらせる」とおっしゃってましたが、私と振付家である洋平さんはそこからが本番なので、「自分でやらんのか~い!」と心の中で盛大に突っ込みを入れていたのは同時だったと思います。

ほかにも、参加者の方々の興味深いお話がたくさんありそうですので、この質問をフォローして、皆さんの回答を楽しみにしたいと思います。一粒で二度おいしい。これもまた、オン会の良さの一つですね。
トミオ先生、参加者の皆様、Maiちゃん、ありがとうございました。来月も楽しみにしています。

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はい。楽しかったです。

何が楽しかったって、いちばんは人間でした。これは読書会というより人間観察会かと思ってしまったほど。読書好き人間観察会ですね。

黙っていると控えめな印象なのに、いざ自身が好きな本のことを語り出すとぐんと存在感が増す女性。自己紹介は雄弁かつコミカルだったのに、本を語り出すとなぜかはにかむ男性。本を他人に紹介するのに、自身と対話を聞かせてくれるように感じた人。自身との対話だから、話が本以外にも派生していって。

本が好きと一口に言っても、「好き」のありかたが皆それぞれ違っている。その違いを味わえたことがとても楽しかったです。どんな本を紹介してくれていたかを覚えていないくらい。笑

(そういう私はどんな感じで本を語っていたのだろう?)

今回は時間の関係でブレイクルームにわかれるのは一度だけでしたが、シャッフルして別の方の「本の楽しみ」を味わうことができたなら、さらによかっただろうと想像します。次回以降に期待するところ大。本は『サピエンス全史』でしたね。

.

私が紹介させてもらったのは『生きるための論語』(安冨歩著)でした。

論語というと、古臭く説教臭い道徳というイメージが一般的だろうと思います。論語は実用的なんだ! といった説にはそこここで出会うにしても、いまいちピンと来ない。論語を実用的と思える人は、それだけで優れた人なのではないかと思うほど。代表選手は間もなく新一万円札に登場するこ

はい。楽しかったです。

何が楽しかったって、いちばんは人間でした。これは読書会というより人間観察会かと思ってしまったほど。読書好き人間観察会ですね。

黙っていると控えめな印象なのに、いざ自身が好きな本のことを語り出すとぐんと存在感が増す女性。自己紹介は雄弁かつコミカルだったのに、本を語り出すとなぜかはにかむ男性。本を他人に紹介するのに、自身と対話を聞かせてくれるように感じた人。自身との対話だから、話が本以外にも派生していって。

本が好きと一口に言っても、「好き」のありかたが皆それぞれ違っている。その違いを味わえたことがとても楽しかったです。どんな本を紹介してくれていたかを覚えていないくらい。笑

(そういう私はどんな感じで本を語っていたのだろう?)

今回は時間の関係でブレイクルームにわかれるのは一度だけでしたが、シャッフルして別の方の「本の楽しみ」を味わうことができたなら、さらによかっただろうと想像します。次回以降に期待するところ大。本は『サピエンス全史』でしたね。

.

私が紹介させてもらったのは『生きるための論語』(安冨歩著)でした。

論語というと、古臭く説教臭い道徳というイメージが一般的だろうと思います。論語は実用的なんだ! といった説にはそこここで出会うにしても、いまいちピンと来ない。論語を実用的と思える人は、それだけで優れた人なのではないかと思うほど。代表選手は間もなく新一万円札に登場することになっている渋沢栄一でしょうか。日本資本主義の父ですね。

『生きるための論語』が浮き彫りにする論語像は「人間観察の書」です。古代中国に科学思想などありはしませんが、だからといって観察をしなかったはずはありません。観察はなにも科学だけのものはありません。

たとえば、「三年之喪」について語る陽貨第十七の21。

宰我問。三年之喪。期已久矣。君子三年不爲禮。禮必壊。三年不爲樂。樂必崩。舊穀既沒。新穀既升。鑚燧改火。期可已矣。子曰。食夫稻。衣夫錦。於女安乎。曰。安。女安則爲之。夫君子之居喪。食旨不甘。聞樂不樂。居處不安。故不爲也。今女安。則爲之。宰我出。子曰。予之不仁也。子生三年。然後免於父母之懷。夫三年之喪。天下之通喪也。予也有三年之愛於其父母乎。

宰我という弟子が孔子に問うたんですね。親が死ぬと三年間喪に服すべしとされているけれども、長すぎるのではないか? と。一年経てば季節は一巡し、新しい収穫もある。自然の巡りに従って、服喪は一年で十分ではないのかと。

孔子は宰我に「1年でメシウマになれるのか」と問い、宰我が「十分メシウマです」と答えている。孔子は「なら、好きにすればいいではないか」と。

宰我が去った後、孔子は言いました。あいつは可哀想なやつだと。生まれて三年間、たっぷり親の懐に抱かれて育っていれば(三年之愛)、たった1年でメシウマになんかなりはしないのに。

論語の注釈書のほとんどは、「予之不仁也」を「不人情な人間だ」と予(宰我)に対して批判的に訳します。孔子が宰我に批判的だったと考える。論語が倫理規定だとするならば、その解釈は妥当でしょう。

でも、論語が理論書だとしたら? そうであるなら、「不仁」は「不人情」ではなく、単に「仁が欠けている」という解釈になる。そして「仁」が「愛着(に満たされたライフスタイル)」だとするならば、「不仁」とは「愛着障害(を抱えたライフスタイル)」ということになります。つまり孔子は弟子に憐憫の情を抱いていると解釈できます。弟子の不出来に批判的な師匠と不憫に思う師匠。どちらを師として仰ぎたいでしょうか?

親から子への「三年之愛」があって、子から親への「三年之喪」があるんだと孔子は言っている――と解釈するならば、論語は人間観察に基づく理論書です。

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Tomio 先生。
あれからずっと考えていました。

いつも感じる私の世界と先生の世界との共通性が、何故今回はこんなに遠かったのだろう?ということを。

予想ではいつものように「そうそう!」と頷きながら話を聞くはずだったのに、違和感と?で一杯だった頭の中。
何故だろう?単純化するという出だしは同じことのように思う。では何が違うのか。

それは他の方のお話にヒントがありました。

鳥山明は走るバイクを斜めにして表現する

抽象化の話としてこの譬えが出されたとき、「それは抽象化ではなくデフォルメだ」と思いながら、一般的には同一化されるものなのかと、なかなかの発見をした気持ちで聞いていましたがそれこそが答えなのではないでしょうか。

私のしている抽象化は同時にデフォルメしているのです。

では抽象だけで成り立っている図柄はないのか?いいえ、あります。
それが「割付紋様」です。

Y=2Xは例えばこういう感じでしょうか。

そしてこれも

これも

きっと数式で表せるのではないでしょうか。

これらは古典文様の一種である割付紋様の定番中の定番ですが、私たちはこれをこれだけで使うことはまずない。そこには色が存在し、線の太さが関係し、そして何よりこれらはただのガイドとなって、何らかの表現に厚みを加えてくれる存在なのです。

ブレイクアウトルームで木下 康輔 さんとXYZなどカクテルの話をしたのですが、その時にもう一人の方が「名前を付けるってもう

Tomio 先生。
あれからずっと考えていました。

いつも感じる私の世界と先生の世界との共通性が、何故今回はこんなに遠かったのだろう?ということを。

予想ではいつものように「そうそう!」と頷きながら話を聞くはずだったのに、違和感と?で一杯だった頭の中。
何故だろう?単純化するという出だしは同じことのように思う。では何が違うのか。

それは他の方のお話にヒントがありました。

鳥山明は走るバイクを斜めにして表現する

抽象化の話としてこの譬えが出されたとき、「それは抽象化ではなくデフォルメだ」と思いながら、一般的には同一化されるものなのかと、なかなかの発見をした気持ちで聞いていましたがそれこそが答えなのではないでしょうか。

私のしている抽象化は同時にデフォルメしているのです。

では抽象だけで成り立っている図柄はないのか?いいえ、あります。
それが「割付紋様」です。

Y=2Xは例えばこういう感じでしょうか。

そしてこれも

これも

きっと数式で表せるのではないでしょうか。

これらは古典文様の一種である割付紋様の定番中の定番ですが、私たちはこれをこれだけで使うことはまずない。そこには色が存在し、線の太さが関係し、そして何よりこれらはただのガイドとなって、何らかの表現に厚みを加えてくれる存在なのです。

ブレイクアウトルームで木下 康輔 さんとXYZなどカクテルの話をしたのですが、その時にもう一人の方が「名前を付けるってもう具象化ですよね」とおっしゃって、なるほどと思いました。
名前を付けること自体は抽象化、具象化ということ以外に「象徴」「特徴づけ」のような要素があります。XYZはこれ以上はないということなのだそうです。この後は無いと。

上の古典文様もただの幾何学模様ではありますが、麻の葉、七宝、と名前が付いていますし割付はすべてそれぞれの意味と「どこまでも広がる」という共通のお目出度い意味が込められています。
中でもストライプとドット、白黒チェックは別格です。
色、太さ、そして名前で何にでもたとえられるのです。
 ストライプは筋や縞と呼ばれ木立や雨、その他諸々に。
 ドットは水玉でありそのまま水滴だったり雪だったり花にも星にも、何にでも。
 チェッカーは市松、石畳などと名前を変えて面でも線でもどこにでも。
表現の一つとして「見立て」というものがありますが、このストライプ、ドット、チェッカーは色や名前を変える(加える?)だけであらゆるものに変化します。
私たちはさらに加工法を変えたりして変化させます。
つまり抽出した要素を色や技法その他諸々で特徴づけ別物として生まれ変わらせながら「抽象化」や「デフォルメ」の一言で済ませていたということです。

例えば「立湧紋様」

このタチワキ紋様というものは、立ち、湧く、模様です。
何が湧くのか?「雲」です。水蒸気が湧く様です。
この単純な曲線はこういう山や海から水蒸気が湧き出る景色を抽象化しデフォルメしたものです。

この変化は数学の世界のバナナや本を数字に落とし込むという「抽象化」に匹敵する荒業ではないでしょうか。
3本のバナナ
3冊の本
出自の違う対象を数で表すという「抽象化」

そう思うと数学の世界はとんでもなく小さい世界も宇宙よりも広い世界も同じ盤上で語られているような不思議な気持ちになります。
あ、これは最初出てきた「部分は全体…」的なことに通じるものでしょうか?

たぶん、このまま考え追求すればいつものように「そうそう一緒だ!」という共感がえられるものに出会えるのかもしれません。

いつものように参加者の方々の話は興味深く、他の小部屋での話を聞けないことがとても残念ではありますが、それも「余白」と思えばなぜか途端に心が穏やかになるような、知らないこと、わからないことにがっかりするのではなく、まだ開けられていない「びっくり箱」があるのだと、人生が楽しくなるような気さえしてきます。

先生が関心を持たれていたことの回答には程遠いのかもしれませんが、一晩かかってとりあえず出た答えがこのような感じです。

次回、もしブレイクアウトルームでお会い出来たら、先生のご意見を伺いたいと思います。

それではまた、9月の会を楽しみにしています。

M,さん、参加者の皆様も、ありがとうございました。

井ノ上 裕之さんのプロフィール写真

やっと回答に取りかかることができます。

非常に面白いお話で、予定では全9回? 10回? いずれにせよ、これはそのうち本になると見ました。文化人の講演などが、その人が現在著作中の本の中身をテーマにしていることはままあることですが、講演だと距離が遠いんですよね。ほとんど一方通行だし。

その点、Club Q 勉強会はぐっと距離が近くて、直接質問をぶつけることもできるし、こうやって感想を書くこともできます。いい時代になったものです。「とっても面白いから、みなさん是非しましょう!」と宣伝したくない企画です。(笑)

Quoraもそのうち、出版を手がけるようになるのかな?


科学と技術は別物である、というのがJastacさんのご意見でした。非常に説得力のあるお話でしたが、にもかかわらず、私は「日本人はどうしても一緒にしてしまう」と感じてしまいました。

はい、私は日本教徒を自認しております。笑
日本教徒からすると、なぜ科学と技術は一緒くたになってしまうのかを考えてみました。

.

科学と技術とを橋渡ししている要素があります。そこをJastacさんは”technology”と"technique”の言語的な違いから、「-logy」つまりは「logos」だと指摘されていましたと記憶しています。

私はそこは「正確さ」ではないのかと考えました。そこで質問を立ててみると、Jastacさんから回答をいただきました。

やっと回答に取りかかることができます。

非常に面白いお話で、予定では全9回? 10回? いずれにせよ、これはそのうち本になると見ました。文化人の講演などが、その人が現在著作中の本の中身をテーマにしていることはままあることですが、講演だと距離が遠いんですよね。ほとんど一方通行だし。

その点、Club Q 勉強会はぐっと距離が近くて、直接質問をぶつけることもできるし、こうやって感想を書くこともできます。いい時代になったものです。「とっても面白いから、みなさん是非しましょう!」と宣伝したくない企画です。(笑)

Quoraもそのうち、出版を手がけるようになるのかな?


科学と技術は別物である、というのがJastacさんのご意見でした。非常に説得力のあるお話でしたが、にもかかわらず、私は「日本人はどうしても一緒にしてしまう」と感じてしまいました。

はい、私は日本教徒を自認しております。笑
日本教徒からすると、なぜ科学と技術は一緒くたになってしまうのかを考えてみました。

.

科学と技術とを橋渡ししている要素があります。そこをJastacさんは”technology”と"technique”の言語的な違いから、「-logy」つまりは「logos」だと指摘されていましたと記憶しています。

私はそこは「正確さ」ではないのかと考えました。そこで質問を立ててみると、Jastacさんから回答をいただきました。

科学の場合と技術の場合における、それぞれの「正確さ」の性格の違いについてお答えをいただきました。

私が考えるに、「技術の正確さ」は身体の作動の正確さです。「科学の正確さ」は記述の正確さ。さらに記述の正確さにも2種類あって、「表記の正確さ」と「表現内容の正確さ」です。そして「表現内容の正確さ」を発明したのが西洋文明の大きな一歩であると考えます。この一歩が科学と資本主義の両方を同時に生みだしたのではないか。

この発想は、ジェレミー・リフキンの発想です。

「時計の誕生」によって人類は“24時間”に支配され、「資本主義の奴隷」になった | 時間と同化するほど“人間らしさ”が失われていく…
SCIENCE 5min 2021.7.3 時間と同化するほど“人間らしさ”が失われていく… 「時計の誕生」によって人類は“24時間”に支配され、「資本主義の奴隷」になった Photo: Gina Pricope/Getty Images Text by Joe Zadeh 私たち人間は、食べる・寝るといった生理現象から仕事まで、生活のあらゆる場面を時計の刻む時間に支配されている。だが、この「時計時間」は人為的に作られたもので、人間や自然の本来の生態サイクルには適合しないという。時間の概念を解体する米誌のエッセイを紹介する。 人間は「時間に縛られた動物」 「グリニッジ標準時(GMT)」がこの世界に誕生したとき、各地で時計破壊運動が起きた。 それは、時計が一方的に押しつけてきた「時間」に対する怒りの表れだったが、現代社会に生きる私たちにしてみれば、こうした抵抗運動はなんとも奇異に思える。私たちの意識には、時計が押しつけた時間感覚がこびりついて離れないからだ。 時間(time)は、現代英語で使用頻度が最も高い名詞だ。教会の尖塔や市庁舎に時計の文字盤と針が登場して以来、時計は私たちの身近にある。職場や学校、家庭、私たちの腕、さらにはスマートフォンやノートパソコン、テレビ画面にも時計は組み込まれ、私たちは毎日それを見て何時間も過ごしている。 私たちの日々の生活に規律を与えているのも、時計が指し示す時間だ。労働時間と賃金はこの「時計時間」に従って決められ、自由時間も時計に従って厳格に管理されている。 さらに、人間の体の生理機能のスケジュールですら時計に決められている。通常、私たちは空腹になったからではなく、食事をとるべき時間に食事をとる。就寝するときも、しかるべき時間にベッドに向かうのが普通であり、疲れたらいつでも寝てよいわけではない。 私たちは太陽系の中心にある太陽が東の空から昇るのを見るより、がなり立てる時計のアラーム音により深い意味を見出している。正午前のランチになぜかうしろめたさを覚えるのも、時計の論理を何の疑いもなく受けとめている証拠だ。 アメリカの経済学者で社会理論家のジェレミー・リフキンは、1987年の著書 『タイムウォーズ:時間意識の第四の革命』 (早川書房)で、人間は「時間に縛られる」動物だとして、次のように書いている。 「自己認識、世界認識はすべて、私たちが時間を想像し、説明し、利用し、制度化する方法に媒介されている」 時計は「時間を生み出す道具」 2020年春、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックが起きると、人々は家に閉じこもった。すると、長時間の在宅勤務をしているうちに、時間の感覚が狂ってしまったと訴える人が多く出た。 たとえば1日が数時間に、数時間が数分に感じられたり、ひと月が果てしなく長く続くように感じられたかと思えば、あっという間だったりする。こうした現象は、パンデミックによって、時計時間と私たちの心のなかの時間が少しずつ乖離していった結果なのかもしれない。 ある研究によれば、パンデミックによって引き起こされた悲しみや不安などの負の感情が時間認識を歪める要因となる可能性があるという。もしかしたら、ただ単に家にずっとこもっていて、あまり代わり映えしない毎日を送っていたせいかもしれない。 いずれにせよ、時間はアリストテレスが考えたように「運動と同様に変化するもの」であり、変化のないものは時間を超越する。しかし、その問題が「時計」にあるのではないかと疑ってかかるような人はほとんどいない。 時計は私たちが時を計測する道具であり、現在進行中の世界的危機にも陶然として時を刻み続ける。私たちが「狂った時間感覚」を経験してもおかまいなく、1秒、1分、1時間と不変のリズムで淡々と時を刻み続ける。時計は正しく、中立で、絶対的存在だ。 だが、本当に時計はいつも正しく、間違っているのは私たちのほうなのか? 30年以上、時計に関する研究をしてきたニューヨーク市立大学人類学教授のケビン・バースはこう話す。 「私たちは小学校で時計と時間について学びますが、ほとんどの場合はそれで終わりです。時計は人間社会の中心として、世の中に出回っている電子機器すべてに組み込まれています。それなのに私たちの時計に関する知識は、小学校低学年レベルのままで止まっているんです」 哲学者、社会科学者、作家、アーティストの間ではそれぞれの見地から、「時計と人間との関係を早急に見直すべき」と主張する声が高まっていて、バースもそのひとりだ。彼らに言わせれば、時計は「時間を計測する道具ではなく、時間を作り出す道具」なのだという。 「協定世界時(UTC)は数学的産物であり、ある特定の現象の実測値ではない」と、バースは著書『時間の可視化』(未邦訳)に書いている。 たしかに時計は数学的発想から生まれ、科学が数世紀にわたって形成してきたものに違いない。しかし時計は科学のみで作られたわけではない。時計は権力、宗教、資本主義、植民地主義の影響も受けている。人間の身体を自然な生態リズムから引き離し、時計の針が刻む時間で縛ろうとする。 時計は、仕事などの打ち合わせを調整する場合に利用すればすこぶる便利なツールだが、同時にきわめて政治的でもある。 そして政治的なものは何でもそうだが、時計もまた一部の人間に利益をもたらす一方、それ以外の他者を疎外し、実際には何が進行中なのか、その真の姿を私たちの目から覆い隠している。 時計の時間と同化すればするほど、私たちは自分の体や周囲の世界のリズムから離れていく。 「時計時間」は自然でも絶対的でもない エジンバラ大学上級講師で、学術誌「タイム&ソサエティ」の共同編集人ミシェル・バスティアンは、私たちが時間の本質を致命的なまでに取り違えているのは時計のせいだと主張する。 自然界では、「時間」や「週」の概念など何の意味も持たない。大気中の温室効果ガスの蓄積、数百万年前から地球に生息していた種の突然の絶滅、ウイルスの急速な蔓延、土壌や水の汚染。こうした現象が与える真の影響は、私たちの理解を超えている。それというのも、私たちの持っている時間の尺度とそれに基づく行動は、人間にしか通用しないからだ。 人種、ジェンダー、セクシュアリティなどの社会的構造が解体されつつある時代にあって、「時計時間とは何か」を問う声はなぜかあまりあがらない。時計は、貨幣とよく似た経過をたどっている。時間を可視化する道具だったはずが、いつしか「時間」と同一視されているのだ。 私たちのほとんどが、時計時間を勘違いしている。時計に表示されている時間は、科学者たちが常時目を光らせている、ある種の絶対的に正確な時間をそのまま反映したものではない。それはひんぱんに変更され、手を入れられて、そのときどきの社会的・政治的要請に合致させられてきた時間なのだ。 たとえばサマータイム(夏時間調整)は私たち人間が作り上げたものだし、「1週間は7日」もしかりだ。前出のバースは言う。 「多くの人は、フランスの国際度量衡局のメートル原器のようなプラチナ製のマスタークロックがあると思い込んでいます。しかし、そんなものはありません。時計が表示しているのは、計算

遠回りになりますが、まずは「表記の正確さ」とはどのようなものかを見てみたいと思います。それは日本で言うと書道的なものです。

正確さの「感覚」は、この画像が的確に表していると思います。

そもそも字が汚いとろくに読んでもらえず落第。答案用紙には草稿用紙もあり、そこで十分吟味できるが、まちがえたら消しゴムで消すなどという感覚は存在しない

こちらの「感覚」は、頭脳の内容を表記という身体作動の正確さで表現してするものと言っていいでしょう。

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西洋的な「表現内容の正確さ」は、これとは全く性格を異にしています。表記が正確だからといって内容が正確だなんて考えないのが科学の思考感覚だし、さらにいえば資本主義を支えている等価交換の思考感覚です。この感覚が生まれたのが、リフキンによると「機械時計の発明」です。

機械時計が発明される以前は、人類の時間感覚は不定時法でした。機械時計以前に一般的だったのは日時計でしょうが、日時計では太陽の巡りの季節的変化、あるいは地理的な変化によって、「時間の刻み」が変化をします。つまり時間は普遍的ではありません。

ところが機械時計は、この状況を一変させます。季節がどうであろうと、地理的にどこに位置していようと、「時間の刻み」は一定なのです。機械時計は実現したのは技術の正確さ、人間の身体作動の正確さの成果ですが、西洋文明はそれを「神の意志の啓示」と見なしたのでしょう。機械時計が出現するや、それを教会の尖塔に掲げるようになります。西洋ではありふれた風景である時計塔の誕生です。

アントワープの聖母大聖堂の時計。あの『フランダースの犬』の最後の場面の舞台です。

こういった時計が「神の啓示」としてヨーロッパの街のあちこちに掲げられました。機械時計が生む「等分される時間の感覚」がキリスト教信仰と相まってヨーロッパ人の「正確さの感覚」となり、その感覚を反映した記述法として数学が誕生したのではないか。

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「等分される時間の感覚」が一足飛びに数学になったわけではないでしょう。その前段階があると考えます。数学以前の算術を元にした正確な記述の体系。それはすなわち複式簿記です。

複式簿記技術自体は、なにもヨーロッパ特有のものではありません。同様のものは、ある程度の商取引が発達した文明ならば、どこにでもあるでしょう。日本にもあったし、中国にありました。イスラム世界にもあるのではないかと思います。ただしそれは、それぞれの商家の技術として、です。時計製作の技術が、職人の固有の技術として認識されるように。

商家固有の技術だったはずのものの体系化が生じたのは、15世紀末のイタリアです。ルカ・パチョーリが『スムマ』という複式簿記の体系書を著し、これがヨーロッパに広がります。このことによって、複式簿記記述体系がヨーロッパ中に広がっていきます。

機械時計の出現による「等分される時間の感覚」が、複式簿記技術体系の普遍化に繋がって、それが「算術を用いた正確な記述の感覚」へと発展し、この感覚をベースに、算術が言語化した。つまり数学になった。

数学を言語体系へと昇華させたのは、微積分

です。微分方程式は、自然言語で云うところの再帰構造(リカージョン)に相当します。文章が入れ子になる。数式が入れ子になって、表現力が飛躍的に増大する。しかも数学の場合は自然言語と違って、「正確さ」を内包しています。

つまり科学(science)とは「正確な記述の体系」です。一方で技術は、technologyの場合には「正確な技術体系」。もう少し精確に云うと、「精確な記述体系を正確に実現する体系」です。この定義の後半部分にあたる「正確に実現」はtechniqueつまりは人間の身体作動の正確さに依っていますが、科学技術の発展に伴ってその要素は小さくなっています。それでも最先端の技術開発には、身体作動の正確つまりは職人芸が必要です。機械では機械が実現している以上の細やかさ(正確さ)を生み出せません。


さて、これがなぜ、日本人には理解できないのか。これというのは、「正確な記述体系の感覚」です。

何を言うのか。現代の日本人は世界で一番時間に正確な民族ではないか、という反論が返ってくるでしょう。

いえいえ、違うのです。日本人が時間に正確なのは、それも強迫的に正確なのは、それが身体感覚だからです。身体感覚と言語感覚の違いです。正確な言語感覚というのが、どうやら日本語話者は体得するのが難しいようです。

正確な時間感覚が言語感覚であるからこそ、西洋人たちは身体感覚から分離できます。そもそも西洋人は心身二元論ですし、心身二元感覚の人たちです。ところが日本人は、西洋人ほどの心身二元感覚になれないのではないか? 日本語という特異な言語がそれを阻んでいるのではないか?

なので日本人は「科学技術」になります。「Science and Technology」にはならないのです。この「and」の感覚こそ、言語感覚です。西洋人が機械時計の発明以来積み重ねてきた言語感覚が働いているのだろうと思います。「and」が意味しているのは、心身の分離です。Scienceは純粋な言語の領域。Technologyは言語と身体の同調。融合しているのではなくて、別個のものとして同調している。ところが日本人だと融合するわけです。一体となってしまうので「and」が出てこないというわけです。

日本語は、心を表現するのに身体を引き出してくることが非常に多い言語です。「頭にくる」「胸が張り裂ける」「腰を据える」「腹に据えかねる」などなど。心身が一体化している証です。


この議論を別の方向へ引っ張っていくと、資本主義につながります。なぜ資本主義では Time is Money. になってしまうのか? リフキンは『タイムウォーズ』において議論をしていますが、それはまた別の機会にすることにします。

それにしても、現代物理学はもはや

いつまでも等分の時間感覚をベースにした価値感覚に縛られているというのは、物理の最先端の感覚がまだまだ広がっていないということになるのではないか、と考えたりします。では、「時間がない」感覚から派生する価値感覚とはどのようなものか?

江戸時代の日本に出現した石門心学の価値感覚がそれだったのだろうと思っていたりするのですが。

脚注

井ノ上 裕之さんのプロフィール写真

私も『エセー』(モンテーニュ)を読み始めました。本はとりあえず図書館から借りてきました。

Tomio先生からご案内があったように、一巻二巻は短い随筆が並んでいます。第一巻は57。二巻は11。

手始めに第八章「無為について」に目を通します。

遊んでいる土地は、たとえ肥沃な土地であっても、役に立たぬ無数の雑草が生い茂るもので、これを役に立つようにするには、有益な種子を蒔いて、土地を使用しなければならない。(略) 精神もまたそのようなものである。何ごとかでそれを見たし、それを制御することがなかったならば、精神は茫漠たる想像の荒野を、あちこちと当てもなくさまようばかりであろう。

.

さきごろ私は、できるだけ他の事にわずらわされずに、私に残された余生をひとり静かに送ろうと決心して、この家に隠居したのであるが、そのときには、私の精神をまったくこの無為にゆだね、精神をそれ自身のことにのみ専念させ、それ自身のうちに安住させることくらい、精神にとって有難いことはないように思われた。(略) しかるに、精神は帰って、逃げ出した馬のようなものとなり、他人のことを労するよりも百倍も多く自分自身のために労することを、私は知った。精神は、順序もなく計画もなく、あとからあとから、奇っ怪な妄想を生み出すのであった。私はそのとりとめのない妄想をゆっくり眺めるために、それらを書きとどめておくことにした。いつか精神がそれを見て恥ず

私も『エセー』(モンテーニュ)を読み始めました。本はとりあえず図書館から借りてきました。

Tomio先生からご案内があったように、一巻二巻は短い随筆が並んでいます。第一巻は57。二巻は11。

手始めに第八章「無為について」に目を通します。

遊んでいる土地は、たとえ肥沃な土地であっても、役に立たぬ無数の雑草が生い茂るもので、これを役に立つようにするには、有益な種子を蒔いて、土地を使用しなければならない。(略) 精神もまたそのようなものである。何ごとかでそれを見たし、それを制御することがなかったならば、精神は茫漠たる想像の荒野を、あちこちと当てもなくさまようばかりであろう。

.

さきごろ私は、できるだけ他の事にわずらわされずに、私に残された余生をひとり静かに送ろうと決心して、この家に隠居したのであるが、そのときには、私の精神をまったくこの無為にゆだね、精神をそれ自身のことにのみ専念させ、それ自身のうちに安住させることくらい、精神にとって有難いことはないように思われた。(略) しかるに、精神は帰って、逃げ出した馬のようなものとなり、他人のことを労するよりも百倍も多く自分自身のために労することを、私は知った。精神は、順序もなく計画もなく、あとからあとから、奇っ怪な妄想を生み出すのであった。私はそのとりとめのない妄想をゆっくり眺めるために、それらを書きとどめておくことにした。いつか精神がそれを見て恥ずかしるときもあろう、と私は思っている。

なるほど、これまたご案内の通り。同じテーマの、裏表の文章が並んでいます。こうした営みからモンテーニュは第三巻で懐疑論を展開しているというご案内でした。

ですけど、こうした懐疑の延長にあるのは、はたして「懐疑」なのでしょうか? むしろ「自由」の方なのではないかと思えてしまいます。


南方熊楠には「燕石考(えんせきこう)」という短い論考があります。この論考はモンテーニュが展開した「懐疑(自由)」の言語的原理についての考察です。熊楠ですから、もちろん東洋の伝統的な知性に則ったもの。

上は下の左側の本より。

内容を意訳して簡単にご説明申し上げましょう。

今、「男」という言葉があったとします。言葉はすべからく世界を分節します。集合論的に記すと、集合「男」は、必然的に補集合を生み出すのだという単純な話です。

男の補集合を「女」と呼ぶことにしましょう。すると世界は「男」と「女」に二分されるわけです。

「強い」という言葉について考えてみても、同様のことが起こります。

燕石考が論考しているのは、これら四項(「男」「女」「強」「弱」)についての関係性です。任意の四項の関係性が言語構造の基本だと考えるのです。

・男は強く、女は弱い

と言えるし、逆に

・男は弱く、女は強い

とも言える。どちらが真なのかは与えられた条件次第。

とある言葉の分節は、他の言葉の分節と結びつきます。真ん中の矢印は容易に左右逆にひっくり返る。つまりは「自由」です。

かくの如く、言葉は世界をさまざまな分節し、分節がまた自由に繋がっていくことで世界を再構成していきます。

言葉の世界は絶え間なく分節し、絶え間なく接続しあって再構成されつづけている。仏教ではこういった言語空間のことを「阿頼耶識(あらやしき)』と言います。そして、たとえば、

・男は強い

となどと固着される言語接続のことを「業(カルマ)」と言います。西洋的な言い方なら「価値観」でしょうけれど、それは仏教的にみると「煩悩(業)」と認識されます。

・男は強くもあり、弱くもある

と考えることができるようになると、煩悩から一つ(だけ)解放されると言えます。

南方熊楠の思索は、かくの如くに有為転変する人間の裡なる言語空間と、人間の外部で広がる森羅万象の有為転変とを重ねて眺めるという方法論でもって展開されていったものでした。

さて、以上を踏まえてモンテーニュの『エセー』です。モンテーニュ自身の西洋的思考では「懐疑」と呼ぶものが、東洋的・熊楠的思考では「自由(煩悩からの解放)」になるのが理解できるだろうと思います。ひとつのテーマ(世界文節)について思索をし、同時に正反対の回答を出していくという試みは、言語に備わっている特性を自由自在に駆使してみせることに他なりません。高度な言語創造性が開陳されている。それが『エセー』です。


想像を逞しくしてみます。

言語空間の基本的四項関係を次のように設定してみましょう。

「生」「死」をネコにまつわるものだして、物理学の方面に連想の矛先を向けてみましょう。思い当たるのは、あの有名な「シュレーディンガーの猫」です。

この連想ゲームは私ひとりの奇抜な思いつきではありません。上に掲げた二冊の本の右側。カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている』の内容がまさにこれです。ボーアが発見した量子跳躍から出発してハイゼンベルクの不確定性原理、シュレーディンガーの波動方程式へと物理学の流れを再検討することを通じて、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』へと思索が展開していく書なのです。

ナーガールジュナこそは、ゴーダマ・ブッダから始まった世界と人間の認識方法を一大展開して見せた大乗仏教の祖とでも言うべき人物。熊楠の思考の源流に位置する存在です。


Tomio先生の熊楠信仰は『エセー』に端を発しているに違いない。お話しを拝聴しながら考えていたことを、少しだけ具体的に書かせていただきました。

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今回のテーマ、「科学で幽霊は語れるか」

Tomio 先生の奥様がおっしゃるように、みんな違う話を想像していたと思いますが、でも、同時に「やっぱりトミオ先生だなぁ!」と感心し、楽しんでいたと思います。

私自身は、最初の方でおっしゃった

「幽霊がいるいないを話し合うのではなく、幽霊を”見た”という人がいつの時代もいるのはなぜなのか。について話し合うのが科学的」

という言葉になるほど!と、膝を打ちました。
というのも、私の家族は私以外全員幽霊を「見た」という人種で、私の師匠は「信じない」という人種。その時のいさかいのもとになるのは「科学的根拠」という言葉です。私はいつもとてもイライラしてそこにいたくなくなるほどだったのです。
でもこれからは、「いる・いないに焦点を当てるのではなく、見た。という事実に焦点を置くのが科学的なんですよ。」と言うようにすれば、いつものあの気まずい空気が薄くなるかもしれません。

トミオ先生は常々、物理学は事実を見つめる学問だとおっしゃる。
ガリレオが「自然がどうあるのか」を分析し、マキャベリが「人間はどうあるのか」を分析して、それまでの「自然とはどうあるべきか」を分析したアリストテレスの時代は終わり学問は科学的になった。というようなお話がありました。

これもまた、とても心に留まるお話でした。

私はわがままで、横柄で、ものぐさなものですから、機嫌がいいと思いやりも持てるのですが、

今回のテーマ、「科学で幽霊は語れるか」

Tomio 先生の奥様がおっしゃるように、みんな違う話を想像していたと思いますが、でも、同時に「やっぱりトミオ先生だなぁ!」と感心し、楽しんでいたと思います。

私自身は、最初の方でおっしゃった

「幽霊がいるいないを話し合うのではなく、幽霊を”見た”という人がいつの時代もいるのはなぜなのか。について話し合うのが科学的」

という言葉になるほど!と、膝を打ちました。
というのも、私の家族は私以外全員幽霊を「見た」という人種で、私の師匠は「信じない」という人種。その時のいさかいのもとになるのは「科学的根拠」という言葉です。私はいつもとてもイライラしてそこにいたくなくなるほどだったのです。
でもこれからは、「いる・いないに焦点を当てるのではなく、見た。という事実に焦点を置くのが科学的なんですよ。」と言うようにすれば、いつものあの気まずい空気が薄くなるかもしれません。

トミオ先生は常々、物理学は事実を見つめる学問だとおっしゃる。
ガリレオが「自然がどうあるのか」を分析し、マキャベリが「人間はどうあるのか」を分析して、それまでの「自然とはどうあるべきか」を分析したアリストテレスの時代は終わり学問は科学的になった。というようなお話がありました。

これもまた、とても心に留まるお話でした。

私はわがままで、横柄で、ものぐさなものですから、機嫌がいいと思いやりも持てるのですが、基本、自分の思うようにならないと気分が悪いし、人が思ったように動いてくれないと「一人の方がましだ」と思ったりする愚かな人間です、でもこれって、アリストテレスのように「こうあるべき」と思っていたのと同じじゃないか?と思ったのです。「私のためにあなたはこうあるべき」だと。これはとんでもない傲慢さです。即刻改めねばならない。

「この人はどういう人か。」「この仕事はどういうものか。」

これからは気分の良しあしにかかわらず、常にそのように考えることにします。

今年から「科学的に考えるサイトウ」が始まるのです。

トミオ先生、Maiちゃん、参加者の皆様、楽しい時間をありがとうございました。

ミラー 七恵さんのプロフィール写真

今回も、前2回に負けず劣らずの充実した哲学対話でした。主催者の哲学教授:和哉さんに、進行、注釈、解釈を交えて頂きながら(加藤和哉先生のご意向で、会では参加者はファーストネーム呼び)和気藹々と発言、意見交換ができました(私、おしゃべりですみませんでした)。

哲学対話:開催第3回目ということで、今回は参加者全員の哲学関連で興味のあるトピックを自己紹介と共に提案し、各々関心のあるトピックを多数決で決めました。一人三挙手までというルールをガン無視して全トピックに挙手して失格になったのは私です。すみませんでした。だって、全部面白そうなトピックでしたから選べませんよ。…ということで、これらは今後のQオン会:哲学対話で反映させていただけそうです。

横から発言してばかりできちんとメモを取っていなかった私ですが、各々のトピック案だけは聞き取れた分だけ書き留めてみました。以下です↓

・口上の言葉のやり取りだけでは伝えきれない思いのもどかしさについて ・好きという感情の概念について ・ あいまいさという抽象表現の中で伝えられる具体性について ・自由と道徳はどのようにして両立させられるか ・自分のちょっと変わったところはある?それは何? ・女性の哲学者や物理学者の数が男性と比べて極端に少ないのはなぜ?・皆さんのトピックがとても面白いので、それに便乗したい(約2名・私を含む)・普遍的な幸せの定義とは ・個性とは 

今回も、前2回に負けず劣らずの充実した哲学対話でした。主催者の哲学教授:和哉さんに、進行、注釈、解釈を交えて頂きながら(加藤和哉先生のご意向で、会では参加者はファーストネーム呼び)和気藹々と発言、意見交換ができました(私、おしゃべりですみませんでした)。

哲学対話:開催第3回目ということで、今回は参加者全員の哲学関連で興味のあるトピックを自己紹介と共に提案し、各々関心のあるトピックを多数決で決めました。一人三挙手までというルールをガン無視して全トピックに挙手して失格になったのは私です。すみませんでした。だって、全部面白そうなトピックでしたから選べませんよ。…ということで、これらは今後のQオン会:哲学対話で反映させていただけそうです。

横から発言してばかりできちんとメモを取っていなかった私ですが、各々のトピック案だけは聞き取れた分だけ書き留めてみました。以下です↓

・口上の言葉のやり取りだけでは伝えきれない思いのもどかしさについて ・好きという感情の概念について ・ あいまいさという抽象表現の中で伝えられる具体性について ・自由と道徳はどのようにして両立させられるか ・自分のちょっと変わったところはある?それは何? ・女性の哲学者や物理学者の数が男性と比べて極端に少ないのはなぜ?・皆さんのトピックがとても面白いので、それに便乗したい(約2名・私を含む)・普遍的な幸せの定義とは ・個性とは ・知ると信じるの違いについて ・自分を客観視するには

かなり端折っていますが、イメージ的にこんな感じだったかと思いますが、ビシバシ補正してください。よろしくおねがします。

多数決で決まったトピックが3つ有りましたが、始めの1トピックだけで時間切れ。結局話せた題目は、なんで女性哲学者がこんなに少ないのか・・・は、発言がどんどんと飛躍して、今回取り上げられなかった他のトピック内容と重複するコメントが多々でした。・・・これ以上書くと長くなりそうなので、他の参加者さんたちの回答にお・ま・か・せしたいと思います。よろしくお願いします。

そして、いつも円滑なQオン会の運営を総括してくださるMaiさん無しではここまで楽しめないと思います。いつもありがとうございます。またよろしくお願いします♡

菅井 洋実さんのプロフィール写真

改めまして、みなさん今年もよろしくお願いいたします。

私は都合が合わず2回飛ばしてしまったので、久しぶりのトミオさんのオンライン勉強会。トミオ節は相変わらずで、専門的経験と教養に富んだトミオさんのおしゃべりがたくさん聴けて面白く満足でした。

きっとあれでもトミオさんはきっと抑え気味で、もっともっとしゃべりたいのでしょうけれど、けっこう今回も質の高いリスナー(参加者)が集まっているので、もうちょっとみなさんの意見や話も聴ける時間があったらいいな~! ……なーんて思っているうちに、すぐに23時で延長のタイムリミットもきてしまうほど、アッと言う間の楽しい時間でした。

さて、直感と論理との関係ですが、私もトミオさんの今回のレクチャーはすべて納得でした。トミオさんも「それは、私じゃなくても、きっとみんなすでに多かれ少なかれわかっていることだけど、私は研究者という職業上、論理を言語化して誰にでも納得できるようにするのが得意なだけだよ」と言っていましたが、まさにそうだと思います。でも、ことばを変えればそのぼんやりとしかわかっていないノンバーバルな「暗黙知」を「形式知」に変換すること、「言語」化することこそ、まさに「論理」化の真骨頂だと思います。

一方で、そのような数学的な時系列の論理ではない、空間的な把握の論理は、アートの世界や、物理法則の発見や、教育の世界でも本当にすごく大切で、それこそがいわゆる直感

改めまして、みなさん今年もよろしくお願いいたします。

私は都合が合わず2回飛ばしてしまったので、久しぶりのトミオさんのオンライン勉強会。トミオ節は相変わらずで、専門的経験と教養に富んだトミオさんのおしゃべりがたくさん聴けて面白く満足でした。

きっとあれでもトミオさんはきっと抑え気味で、もっともっとしゃべりたいのでしょうけれど、けっこう今回も質の高いリスナー(参加者)が集まっているので、もうちょっとみなさんの意見や話も聴ける時間があったらいいな~! ……なーんて思っているうちに、すぐに23時で延長のタイムリミットもきてしまうほど、アッと言う間の楽しい時間でした。

さて、直感と論理との関係ですが、私もトミオさんの今回のレクチャーはすべて納得でした。トミオさんも「それは、私じゃなくても、きっとみんなすでに多かれ少なかれわかっていることだけど、私は研究者という職業上、論理を言語化して誰にでも納得できるようにするのが得意なだけだよ」と言っていましたが、まさにそうだと思います。でも、ことばを変えればそのぼんやりとしかわかっていないノンバーバルな「暗黙知」を「形式知」に変換すること、「言語」化することこそ、まさに「論理」化の真骨頂だと思います。

一方で、そのような数学的な時系列の論理ではない、空間的な把握の論理は、アートの世界や、物理法則の発見や、教育の世界でも本当にすごく大切で、それこそがいわゆる直感であるという図式に、ものすごく納得しました。

そうか! 直感も論理なのだ。

トミオさんのような物理法則に関するひらめきについては話の上でしかわからないけれど、自分の体験上でもやはりそれは至極納得しました。直感とは単なる当てずっぽうの博打なんかではなく、コツコツと日々積み重ねた小さな学習や経験、試行錯誤の失敗を繰り返していくなかで、身についていく空間認識能力、全体把握能力なんだって思う。

スポーツ選手などでよく言われる「ゾーン」も似たようなものだと思います。私もラグビー競技をしてきた経験の中で、時間がスローモーションのようになって空間と時間を自分が制御できたと感じたことがあります。そんなときはある一瞬で成功シーンの絵を描き、その自分が描いた絵に、まるでパズルのピースが塡まるように、まさに自分と相手のプレーが嵌まっていくことがありました。これもたくさんの経験を積み重ねてきた空間的な把握の論理、直感に相当すると思います。決して博打ではないのです。

どんな職業でも、いや職業にかかわらず、人生をより善く生きるうえで、論理と同じくらい直感ってすごく大事だと思います。

善い「直感」に従い、正しい「論理」で補強・説明し、かけがえのない、取り替え不可能な「物語」を作り、それに「感染」した人と一緒に、もっと大きな「物語」を共有していくのが人生ですから。

追記:私見ですが、純文学小説にも純文学小説の論理があります。たくさんの善い小説に触れるということは、多くの物語を擬似的に追体験するということで、物語の構造と論理を血肉にし、取り替え不能な自分の人生(=物語)を生きるための、善い直感を磨くことにもなるのではないでしょうか。

山田 洋平さんのプロフィール写真

経験や勘ってなんですか?と問われたら、散逸的にできた構造です。と答える事にします。

ところで、私にとって経験や勘というものを定性的に説明し尽くしたのが、モーシェ・フェルデンクライス氏です。

奇しくも、フェルデンクライス氏もウクライナ生まれのロシア人。フランスのパリに渡り、機械工学、電気工学の学位を取得後、ソルボンヌ大学院博士課程に在籍中にノーベル賞受賞者ジョリオ・キュリーのアシスタントとして初期の原子力研究に携わりました。柔道の黒帯でもありました。

フェルデンクライス氏はフェルデンクライス・メソッドという身体訓練法を発明した人で、その応用範囲は広く、舞台芸術、創作、スポーツ、教育、特別支援教育、健康福祉などの多岐の分野に応用されています。

Tomioさんの語るプリコジン氏の姿は、私の友人が語るフェルデンクライス氏の姿と酷似しているのを今日発見しました。

今回の話は次回に続き、5月10日21時から開催されるので、感想は書きすぎないようにしますが、今回のタイトル、(逆説的な世界)にちなんで、話を聞いてて思い浮かんだ言葉を紹介します。

完璧さは未熟さの表れである。

息の根を止めるような発見よりも、見渡す世界の広さを知らしめる発見の方が好きなんです。プリコジン氏も、フェルデンクライス氏も、Tomioさんも、話す事はいつも世界の広さを語ってくれます。それはつまり、喜びを語っています。喜びを語る事は悲しみを

経験や勘ってなんですか?と問われたら、散逸的にできた構造です。と答える事にします。

ところで、私にとって経験や勘というものを定性的に説明し尽くしたのが、モーシェ・フェルデンクライス氏です。

奇しくも、フェルデンクライス氏もウクライナ生まれのロシア人。フランスのパリに渡り、機械工学、電気工学の学位を取得後、ソルボンヌ大学院博士課程に在籍中にノーベル賞受賞者ジョリオ・キュリーのアシスタントとして初期の原子力研究に携わりました。柔道の黒帯でもありました。

フェルデンクライス氏はフェルデンクライス・メソッドという身体訓練法を発明した人で、その応用範囲は広く、舞台芸術、創作、スポーツ、教育、特別支援教育、健康福祉などの多岐の分野に応用されています。

Tomioさんの語るプリコジン氏の姿は、私の友人が語るフェルデンクライス氏の姿と酷似しているのを今日発見しました。

今回の話は次回に続き、5月10日21時から開催されるので、感想は書きすぎないようにしますが、今回のタイトル、(逆説的な世界)にちなんで、話を聞いてて思い浮かんだ言葉を紹介します。

完璧さは未熟さの表れである。

息の根を止めるような発見よりも、見渡す世界の広さを知らしめる発見の方が好きなんです。プリコジン氏も、フェルデンクライス氏も、Tomioさんも、話す事はいつも世界の広さを語ってくれます。それはつまり、喜びを語っています。喜びを語る事は悲しみを語るよりも高度です。そして話を聞いていると、自分はこれだけ知らない事だらけで今まで生きてきたんだから、色々知ればもっと良い生き方ができるんじゃないかと思わせてくれるのです。

次回は理論的な話という事で、気合いを入れて参加したいと思います。

今回もありがとうございました!

Nakamura Tetsukiさんのプロフィール写真

開始時間を勘違いしていたこともあって途中からの参加となりました。失礼しました。

Jastac先生のいらっしゃるスイスETHのドクターコースのプログラム内容に非常に感銘を受けました。

私は以前から科学や技術について関心があったのですが、それはその内容についてというよりは、そもそも科学とは何だろう・技術とは何だろうというような思いが湧いて止まらなかったというところです。私なりの模索を経て、科学とは普遍性(時と場所を超えて再現すること)だと私は納得しています。対して、技術とは何かを他と比較するのではなく、絶対的に定義や説明をするのは少し難しいなというように思っていました。特に、「高度な技術者」とか「より技術的」などと言うようなことがあるのですが、この場合は技術だけとった中に数直線のような軸がないといけないのですが、それが何かをうまく言い表しにくいなと感じていたのです。

私はプロフィールにもあるようにデザイナーを自認しているのですが、これはアートとデザインを対比した場合に私がデザイン寄りに居るということを意味しています。アートとデザインは図らずも、いやむしろ必然的に科学と技術の関係と相似形です。つまりアートと科学はクライアントがおらず、デザインと技術はクライアントがいるのです。そしてデザインと技術は共に問題解決だと言えます。Jastac先生の初回講義でお聞きした技術の定義(引用されたのは畑村洋太

開始時間を勘違いしていたこともあって途中からの参加となりました。失礼しました。

Jastac先生のいらっしゃるスイスETHのドクターコースのプログラム内容に非常に感銘を受けました。

私は以前から科学や技術について関心があったのですが、それはその内容についてというよりは、そもそも科学とは何だろう・技術とは何だろうというような思いが湧いて止まらなかったというところです。私なりの模索を経て、科学とは普遍性(時と場所を超えて再現すること)だと私は納得しています。対して、技術とは何かを他と比較するのではなく、絶対的に定義や説明をするのは少し難しいなというように思っていました。特に、「高度な技術者」とか「より技術的」などと言うようなことがあるのですが、この場合は技術だけとった中に数直線のような軸がないといけないのですが、それが何かをうまく言い表しにくいなと感じていたのです。

私はプロフィールにもあるようにデザイナーを自認しているのですが、これはアートとデザインを対比した場合に私がデザイン寄りに居るということを意味しています。アートとデザインは図らずも、いやむしろ必然的に科学と技術の関係と相似形です。つまりアートと科学はクライアントがおらず、デザインと技術はクライアントがいるのです。そしてデザインと技術は共に問題解決だと言えます。Jastac先生の初回講義でお聞きした技術の定義(引用されたのは畑村洋太郎の定義でした)が「技術はクライアントが居る」というものであったのは私にはとても腑に落ちました。ただ、これも技術についての相対的な説明であって、絶対的な意味で技術とは何かが説明された訳ではなかったのです。

技術について、私は勝手定義ですが、科学の援用だと考えるようにしています。

科学: 前提・環境 + 作用 → 因果的結果
技術: 因果的結果 ← 前提・環境 + 作用

技術はまさにクライアントが居るのですが、そのクライアント(自分自身の場合もあります)が望んでいるものや状態があるのです。技術者はできるだけ高確率かつ高精度・高効率にそれを実現しようとします。その際、特に確率をあげるために利用されるのが科学です。科学として分かっている因果法則があれば、それを逆向きに援用してやれば、確実自動的に望む結果は得られます。手に持ったボールを床面に移動させたければ、指をボールから離せばいいのです。

このように考えた場合、先に挙げたような「高い技術」「より技術的」というような概念が少し紐解かれるのではと思うのです。つまり、技術にはクライアントが居ますから求め望むことがあって、技術者はそれをどうにか再現しようとするのです。ところがもしも、その望むものを直接的に生成するような科学の法則がなかったり、科学の法則があっても確率論的なものであるとすると、再現はままならないことになります。そのようなことを想定すると、「高い技術・より技術的」とは「相対的確実に求める現象を再現するもの・こと」であるということであり、あまりこういう言い方はしませんが「低い技術」「技術的でない」とは「求める現象の再現性が乏しいもの・こと」となります。

さて、でもこうだとすると、高い技術力を持つ人というのは科学知識の豊富な物知りだということになってしまいます。これは私の経験や直感に反します。高い技術力を持つ人は現に居ますし、そうした人は科学知識が相応にはある人ですが、あるレベルを超えると科学知識量と技術者としての有能性のリンクは外れるように思うのです。高い技術力をもった人は、科学的に未判明のことであっても、あるいは科学的に判明しているのが確率論的な傾向性のみであっても、それでも求める現象の再現度を高められる人のことでしょう。私は経営学の修士号を持っていますが、経営学など修めていないにも関わらず驚くべき業績を上げておられたり、ものすごく立派な見識をお持ちの経営者はたくさんおられるのです。

これは、以下のように理解すればよいのではないかと思います。つまり現象が複数の要因の絡み合ったシステムによって生じる場合、そのシステムは複雑系となり、入出力の関係が一意に定まらない。しかし、だからといってその複雑なシステムの入出力関係が完全な無秩序な訳ではなく、複雑な中にも傾向性や限定的法則性は存在する。そのことにも勘付き、それを科学に準ずるものとしてでも援用して現象の再現度を上げられる技術者こそ、より高い技術を持った技術者だと言える。

このように捉えれば、会社における商品開発プロジェクトや、都市レベルの産業振興プロジェクト、国家レベルの疫病防疫プロジェクトなど、そのことのためだけに用意された科学的法則性などない極めて複雑なシステムを扱う者こそ高度な技術者が充てられるべきだと分かります。またそのようなプロジェクトは複雑ではない明瞭な因果関係を扱おうとしてきた科学者では手に負えないことが分かります。だからこそ、科学と区別された、高度な技術を持った者を育成していなければならないのです。

しかしはたと困ります。日本の大学や大学院は(防衛大学など例外を除けば)文科省の管轄下にあり、研究と教育の機関と位置付けられています。大学の教員は教員であるよりも先に研究者です。その研究は科学を指向していなければなりません。技術、つまり現象再現の確度を上げるための技芸といったものでは研究者になれず、大学の教員にもなれないのです。(裸一貫で会社を立ち上げて大きくした創業経営者では(国立大学の)経営学部の教員にはなれません。安藤忠雄が東大教授になったようなケースは異例中の異例です。)しかし、商品開発や産業振興や疫病防疫といった巨大かつ複雑なシステムは研究しようにも研究者の手に余ります。またそもそも複雑系なので、研究しても分かり得ないほどに複雑なのです。これでは、日本の大学や大学院では高度な技術者の育成は無理です。

対して、企業は商品開発や年次利益創出といった巨大で複雑なシステムを扱っており、そのことに資する技術者を常に欲しています。日本の学校を出てきた人を採用し、自社の複雑系プロジェクトにアサインすることで技術者としての仕上げ教育をしています。(しようとしています。いや、しようとしていました。いや、しないといけないという自覚はありました。……どこまでトーンダウンすればいいでしょう…。)そのための、技術者としての仕上げ教育の方法論について、企業経営者・人事担当者・技術管理者は模索し続けてきています。そのある種の蓄積により、日本流の技術者育成システムモデルは解明されたのだと言ってもいいのかもしれません。(野中郁次郎によるナレッジ・マネジメントがそれであり、その延長線上にも位置付けられる伊丹敬之の見えざる資産や場の論理がそれです。)ところが残念なことに、日本企業はここ30年続いているグローバル化の影響を受けすぎ、日本流の技術者育成システムを自ら遺棄してしまって今日あります。

事態は極めて深刻です。まさに「立国は技術でもってでしか成らない」にもかかわらず、日本では技術者を育成できない構造にあるのです。しかし嘆いてばかりいても始まりません。どうにかして、大学も企業も技術者を育成せねばならないのです。その問題意識に立った時、ETHのやり方はとても参考になります。

つまり、高度な技術者の育成は、修士までで十分に科学教育を受けた者が、複雑系の対象を扱うプロジェクトを通じて成されるということです。それは最早教育ではなく、自己育成であり学習です。技術者は、科学的法則性が明確に見いだされていないことであったとしても、自ら求める現象の再現のために勘を働かせて准科学を援用し、目的の達成のために邁進します。それは教育を受けるということとは完全に質を異にします。当然それはpost教育ではなくpre生産であるので、報酬支払いの対象たるべきでしょう。

これは実は日本企業が総合職新人のために採ってきた手法とほぼ重なります。唯一違うのが日本企業の場合はそれが企業の傘の下にあって、その企業の中で囲われていたということであり、裏返しでETHの場合は企業の外でなされて、財政的には国やスポンサー・パトロンが支えているということです。このシステムは現代の日本には馴染みがありません。しかし振り返ってみるに、明治大正から昭和も戦前までは広い意味ではETHと似たシステムで日本でも技術者が育成されていたとも言えます。だからこそ、やってやれないことはない。

ここはむしろ産業界の後押しを受けて、経産省にでもpost-masteral programや研究者養成ではないpost-doctral programとしてETHのような有給技術者育成制度を設計させたいところです。問題は財政ではなく、そのpost programを指導する指導者ですね。少なくとも科学研究者にはそれは務まらないのです。そこは、現場にいる技術者が当たるべきでしょうね。現役技術者が忙しくてできないというのなら、まだ元気な引退技術者をかき集めてきてでもやってもらえばいいでしょう。

そのために、まずは私が政治家になるところからですか、ね?(当選しそうな気配が1ミリどころか1フェムトすらもない…)

Quora Userさんのプロフィール写真

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お金で得られる快楽ではない、心の充実を感じました!(これが一言感想です。)

※2020年11月26日(木曜日)【第一回哲学対話】に参加しました。


言葉が見つからないほど素晴らしい会にして下さった、哲学者の加藤 和哉 さん、参加して下さった皆様、本当にありがとうございました。

私はこの会に参加するまで、「哲学」について、ほとんど何も知らないに等しかったのだと気づけました。知的な皆様は常日頃から「哲学」について考えている生き物なんですね。

最初に和哉さんが「哲学」とは何かについて、わかりやすくお話して下さいました。私は哲学も倫理も同じように考えていましたが、和哉さんの説明を聞いて、その違いが少しわかりました。「哲学の方が広い意味で哲学」のようです。

和哉さんがオン会で開催して下さる哲学対話には七つの約束事があり、そのおかげで誰でもが簡単に安心して発言できます。そんな対話っていいものだなぁと心底思えました。

「オンラインでも心は繋がっている!?」については、ちょうど仕事で「非接触の接触」を考えていたので大変興味のある話題でした。

新型コロナにより「集まる事」を奪われた今、私たちはオンラインで心のつながりを実感出来るのだろうか?という私なりの問いを頭に置き、参加した方々のお話を聞きました。

正義のお話も出て、個人的には「誰かの為に!」と思ってとる行動の中の一部に危ない言動があると思っているので、そう発言

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お金で得られる快楽ではない、心の充実を感じました!(これが一言感想です。)

※2020年11月26日(木曜日)【第一回哲学対話】に参加しました。


言葉が見つからないほど素晴らしい会にして下さった、哲学者の加藤 和哉 さん、参加して下さった皆様、本当にありがとうございました。

私はこの会に参加するまで、「哲学」について、ほとんど何も知らないに等しかったのだと気づけました。知的な皆様は常日頃から「哲学」について考えている生き物なんですね。

最初に和哉さんが「哲学」とは何かについて、わかりやすくお話して下さいました。私は哲学も倫理も同じように考えていましたが、和哉さんの説明を聞いて、その違いが少しわかりました。「哲学の方が広い意味で哲学」のようです。

和哉さんがオン会で開催して下さる哲学対話には七つの約束事があり、そのおかげで誰でもが簡単に安心して発言できます。そんな対話っていいものだなぁと心底思えました。

「オンラインでも心は繋がっている!?」については、ちょうど仕事で「非接触の接触」を考えていたので大変興味のある話題でした。

新型コロナにより「集まる事」を奪われた今、私たちはオンラインで心のつながりを実感出来るのだろうか?という私なりの問いを頭に置き、参加した方々のお話を聞きました。

正義のお話も出て、個人的には「誰かの為に!」と思ってとる行動の中の一部に危ない言動があると思っているので、そう発言したのを覚えています。皆様も熱くなっていたように感じました。AI(人工知能)に恋する人間の話なども出て、私は独りニヒリズムに入りかけたりもしましたが、とっても盛り上がった会で楽しかったです。

実は先日すでに【第二回哲学対話】が開催され好評でした。そんなわけで来年、第三回の開催を私も希望します。


参加した方々の感想一覧はこちらで読むことが出来ます。

Club Q オン会【哲学対話「心はどこにある?(オンラインでも心はつながってる!?)」】 (2020-11-26) はいかがでしたか?

※最近、オン会に参加するためにQuoraに登録する方が増えているのも嬉しいことです。気になるオン会を見つけたら、ぜひお気軽に参加コメントをして下さい。安心して参加をご検討いただければと思います。(皆様の安全に配慮するためのルールなどございます😊)

投稿日:2020/12/20

Quora Userさんのプロフィール写真

これは・・その1ですし、現時点で回答するのもどうかと一日悩みましたが。

とりあえず第一回ありがとうございました。

ここまでの感想でいえば。

とりあえず期末の予算大会で忙しく、3か月くらい参加できてなかったので、テーマはおいといてとりあえず参加。みたいな軽いノリで参加しましたが。

いや。重い・・・・w

これは予習が必要でしょうw

というわけで次回までに予習してこようと思います。

あと、一部参加者たちが気にされていたので報告しておきますと

背景に映っていたのは等身大アスナ(SAO)です。

先日は家から参加しておりましたので背景がこちらになっておりました。

なんでもいいが授業中は先生の話に集中しないさいよ??みなさんww

というのが感想でございます。

これは・・その1ですし、現時点で回答するのもどうかと一日悩みましたが。

とりあえず第一回ありがとうございました。

ここまでの感想でいえば。

とりあえず期末の予算大会で忙しく、3か月くらい参加できてなかったので、テーマはおいといてとりあえず参加。みたいな軽いノリで参加しましたが。

いや。重い・・・・w

これは予習が必要でしょうw

というわけで次回までに予習してこようと思います。

あと、一部参加者たちが気にされていたので報告しておきますと

背景に映っていたのは等身大アスナ(SAO)です。

先日は家から参加しておりましたので背景がこちらになっておりました。

なんでもいいが授業中は先生の話に集中しないさいよ??みなさんww

というのが感想でございます。

宮内 諭さんのプロフィール写真

加藤 和哉 さんの素晴らしいファシリテーションのおかげで、話題が広がりつつも発散しすぎることのない対話を楽しむことができました。当日は子守り半分で聞いていたのであまり発言できず、残念でした。。

「ロボットに心はあるのか」という議論については、会でも話しましたが、深層学習を取り入れた現代のAIが心を持つのは時間の問題だと思っています。AIBOやルンバに愛着を抱き、心があるように感じるのは、人間側の投影に過ぎないと思いますが、原理的に人間と同じニューラルネットワークを持つAIは、この先、心を持つことになるでしょう。それを人間が理解できるかどうかは分かりませんが。。実際、囲碁AI「AlphaGo」による「ひらめきの一手」は人類が理解できないものでした。

人類にうまく寄り添うように作られたAIが開発されれば、映画『her』のように、AIと人間の恋愛も当たり前となる世界が訪れるようになるんじゃないでしょうか。楽しみです。


もう一点、「何故、政治の話題になると皆エキサイトしてしまうのか?」の話題も興味深いものでした。このテーマの中で、「人間には利己と利他の心が共存している。平和のためには、相手の心を慮る「利他の心」が重要なのでは」というようなお話がありました。一方で私は「むしろ『行き過ぎた利他の心』が戦争をもたらすのでは」とも考えていました。

自分の考えを広めようとする行為(布教)は、利他の心から生ま

加藤 和哉 さんの素晴らしいファシリテーションのおかげで、話題が広がりつつも発散しすぎることのない対話を楽しむことができました。当日は子守り半分で聞いていたのであまり発言できず、残念でした。。

「ロボットに心はあるのか」という議論については、会でも話しましたが、深層学習を取り入れた現代のAIが心を持つのは時間の問題だと思っています。AIBOやルンバに愛着を抱き、心があるように感じるのは、人間側の投影に過ぎないと思いますが、原理的に人間と同じニューラルネットワークを持つAIは、この先、心を持つことになるでしょう。それを人間が理解できるかどうかは分かりませんが。。実際、囲碁AI「AlphaGo」による「ひらめきの一手」は人類が理解できないものでした。

人類にうまく寄り添うように作られたAIが開発されれば、映画『her』のように、AIと人間の恋愛も当たり前となる世界が訪れるようになるんじゃないでしょうか。楽しみです。


もう一点、「何故、政治の話題になると皆エキサイトしてしまうのか?」の話題も興味深いものでした。このテーマの中で、「人間には利己と利他の心が共存している。平和のためには、相手の心を慮る「利他の心」が重要なのでは」というようなお話がありました。一方で私は「むしろ『行き過ぎた利他の心』が戦争をもたらすのでは」とも考えていました。

自分の考えを広めようとする行為(布教)は、利他の心から生まれるものだと思います。でもそれは、簡単に宗教戦争に繋がります。悪いと知りつつ悪事を働く人は稀で、世界をより良くしようとする信念こそが逆に諍いのもとになっているように思えます。まさに「地獄への道は善意で舗装されている」

自分の信念を伝える事はどこからが「利己的行為」でどこからが「利他的行為」なのか、どこからが「相手の心を慮った親切」で、どこからが「相手の心を無視した押し付け」なのか。そのボーダーラインを引くことは不可能だよな…難しい…というようなことを考えていました。

色んなテーマで第二回、第三回と開催されることを楽しみにしています!

Petrosky Tomioさんのプロフィール写真

今回は、私のオン会の参加者の常連の一部の方から次の三つの演題の希望が来ておりました:「重力ってなに?」「科学で恋を語る」「物理学の発見てどう言うこと?」

こりゃ大変だ。なんともまあ支離滅裂な組み合わせだってんで、いっそのことこれを落語の三題噺で牽強付会にまとめて、ああだこうだと、こちらも支離滅裂な話にこじ付けてみました。

私自身宇宙論の専門家ではありませんので、その方面の話はできません。しかし、統計物理学と複雑系の物理学を生業としてきた者から見ても、重力って物理学で扱う力の中で、この力だけが無限の彼方まで影響を及ぼすことができる唯一の力という意味で、複雑系の物理学の中でも他の力ではあり得ない悪戯をたくさんすること知っております。この重力の特別な性質を強調するために、重力は長距離力であると言う言い方もされます。

例えば、分子同士の力は遠くまで届きません。だから、分子間力は短距離力です。そんな短距離力で衝突しあっていると、必ずその分子の気体系は最終的に熱平衡状態と言って、温度一定で空間的に均一に分布するようになる。ところが、星の集団では皆さん銀河系や星雲でもご存知のように、いつまで経っても渦を描き、その渦に何本もの渦の尾が出ております。だから、一向に空間的に均一な熱平衡になれない。もし宇宙全体が熱平衡になってしまったらその状態から先は永久に均一で、なんの変化あるいは進化も構造も持たなくなって

今回は、私のオン会の参加者の常連の一部の方から次の三つの演題の希望が来ておりました:「重力ってなに?」「科学で恋を語る」「物理学の発見てどう言うこと?」

こりゃ大変だ。なんともまあ支離滅裂な組み合わせだってんで、いっそのことこれを落語の三題噺で牽強付会にまとめて、ああだこうだと、こちらも支離滅裂な話にこじ付けてみました。

私自身宇宙論の専門家ではありませんので、その方面の話はできません。しかし、統計物理学と複雑系の物理学を生業としてきた者から見ても、重力って物理学で扱う力の中で、この力だけが無限の彼方まで影響を及ぼすことができる唯一の力という意味で、複雑系の物理学の中でも他の力ではあり得ない悪戯をたくさんすること知っております。この重力の特別な性質を強調するために、重力は長距離力であると言う言い方もされます。

例えば、分子同士の力は遠くまで届きません。だから、分子間力は短距離力です。そんな短距離力で衝突しあっていると、必ずその分子の気体系は最終的に熱平衡状態と言って、温度一定で空間的に均一に分布するようになる。ところが、星の集団では皆さん銀河系や星雲でもご存知のように、いつまで経っても渦を描き、その渦に何本もの渦の尾が出ております。だから、一向に空間的に均一な熱平衡になれない。もし宇宙全体が熱平衡になってしまったらその状態から先は永久に均一で、なんの変化あるいは進化も構造も持たなくなってしまう。これを熱死状態と言います。だから、変化を起こすためには、その物理系は熱力学的に非平衡状態に保たれていなくてはならない。

ここに重力の出番がある。この宇宙には重力という異端児がいて、それがこの宇宙を熱死状態に行くのを妨げてくれている。その結果、いつまで経っても進化し続ける宇宙であることを重力が保証してくれている。

そして、風が吹けば桶屋が儲かるような、順繰りとした理屈で、結局、この宇宙に物理学の法則に基づいて自発的に高度な構造が現れてくることを明らかにした「散逸構造の理論」の正当性を保証してくれている。その散逸構造の典型的な存在が我々生物です。そして生物は皆恋をする。だから、この素晴らしい恋を味わうことができることの源は重力にあり、、、ってな強引な屁理屈で終わらせたのが今回のお話でした。あー、苦しかった。

マッド・サイエンティストが重力で恋を語ると、こんな話になっちまうんだとの一つの例でしょう。

科学者として、つい専門的な言葉も出てきて難しかったなんてコメントもオン会中に頂けたのは、私には役に立つコメントでした。でもそんな方から、「重い」は「思い」に通じるという、目から鱗のコメントが頂けました。今回の話って、熱死という形で終わることのないと言うこの宇宙の話は、死について論じている宗教にも通じるものがあるとのコメントも頂けました。私がSF小説の中のマッド・サイエンティストでいることで、今回参加した一人の方はその研究助手でいたいというコメントも頂けました。

重力が恋を導いてくれるなら、その反対に、愛→物理ってな流れだってあるはずだと言うコメントも今回の回答で頂けた。

今まで無関係であると思われていたことの間に、思いも掛けない関係が見つかった時に、私たちって新しい発見をし、新しい世界を見るんですよね。物理学の発見もこう言うことなんですよね。

毎回そうなんですが、私はいつも、参加者さんの一言から見えてくる新しい世界の発見を楽しんでいます。

今後とも宜しくお願いします。

山田 洋平さんのプロフィール写真

創作活動をする人間としては、創作は分岐点との対話、と考えました。

舞踊では人の体を定数として扱う事が可能です。バレエなどはその最たる例です。オーディションの段階で変数をなるべく少なくし、作品の構造が安定するように創作する方法があります。

対して私が行う創作は、変数がなければ始まりません。身体・思想・専門などが異なる人間を集め作品という系を不安定にさせます。そこから大小様々な分岐点において対話を重ね、収まる処に収まり作品という構造ができあがります。作品ができたあとに作品を見直すと論理的に説明ができる秩序がそこに浮かび上がります。そんな時には自分が作品を作った気がせず、誰かが勝手に作ってくれたと思います。同時に誇らしい気持ちになります。

分岐点との対話は書道や陶芸でも存在します。墨の乗り具合、紙の状態、土の状態、焼き加減、多くの変数があり、その度に系は不安定になります。その不安定さの中から生まれた分岐点に立ち決断をして作品を作り上げていきます。分岐点での対話や決断が創作の本質ではないかと感じました。

今回のお話を聞いて、私は新しい眼鏡を手に入れた気分です。視界が鮮明になり、ぼんやりと見えていた風景の色と形が顕になりました。

皆さん、いつもありがとうございます!次回6月・・・は出張中の予定で参加できるかわかりませんが、楽しみにしています!

Sakakibara Yoshihitoさんのプロフィール写真

遅刻して参加して渡会仁先生のお話を聞き逃した上に、夕食を食べながら、岡田玲緒奈先生のお話を聞いて、数時前は動いた自分のPCのマイクが作動しないという状態でしたが、すごく勉強になりました。有料でもいいんじゃないかと思いました。

小児科の先生がなんでワクチンと思ったら、現代日本でワクチン接種の臨床最前線は小児科なんです。質疑応答が始まって得心しました。様々なレベルの理解度、異なる経験と背景の質問に対する、見事なお答え。質疑応答の詳細は下記のサイトウノブコさんの回答にキチンとメモされています。熱心にメモを取っておられました。ありがとうございます。

https://qr.ae/pG8Oo4

サイトウさんも紹介されていますが、下記のサイトのQ&Aは、最新の各種ワクチンのイギリス/南アフリカ/ブラジル変異株への効果(感受性)が更新され続けていたりして一見の価値がありますので、ご一読いただきたいと思います。

こびナビ - COV-Navi
COV-Navi

我々に順番が回ってくるころにはアストラゼネカの最新バージョンしかなくて、mRNAワクチンは回ってこないでしょうが、コロナ禍の最終解決手段であるワクチンへの期待と希望が増した勉強会でした。

巧みな司会のMai Hiranoさん、掲示してお知らせいただいたミラー 七恵さん、ありがとうございました。こういう経験があるから、Quoraはいいですね。

ひとつ思い出した質疑があ

遅刻して参加して渡会仁先生のお話を聞き逃した上に、夕食を食べながら、岡田玲緒奈先生のお話を聞いて、数時前は動いた自分のPCのマイクが作動しないという状態でしたが、すごく勉強になりました。有料でもいいんじゃないかと思いました。

小児科の先生がなんでワクチンと思ったら、現代日本でワクチン接種の臨床最前線は小児科なんです。質疑応答が始まって得心しました。様々なレベルの理解度、異なる経験と背景の質問に対する、見事なお答え。質疑応答の詳細は下記のサイトウノブコさんの回答にキチンとメモされています。熱心にメモを取っておられました。ありがとうございます。

https://qr.ae/pG8Oo4

サイトウさんも紹介されていますが、下記のサイトのQ&Aは、最新の各種ワクチンのイギリス/南アフリカ/ブラジル変異株への効果(感受性)が更新され続けていたりして一見の価値がありますので、ご一読いただきたいと思います。

こびナビ - COV-Navi
COV-Navi

我々に順番が回ってくるころにはアストラゼネカの最新バージョンしかなくて、mRNAワクチンは回ってこないでしょうが、コロナ禍の最終解決手段であるワクチンへの期待と希望が増した勉強会でした。

巧みな司会のMai Hiranoさん、掲示してお知らせいただいたミラー 七恵さん、ありがとうございました。こういう経験があるから、Quoraはいいですね。

ひとつ思い出した質疑がありました。

Q. 筋肉注射は皮下注射よりも痛いですか?

A. 注射自体は痛くないです。そのあとの痛みは人それぞれ。

私の経験ですが、注射針で痛みは違うのか、様々な注射針を用意して男女各数百人で試験したことがあります。

痛点に当たると、なんでもどこでも痛いです。痛点に当たったらごめんなさい、としかいえません。指先は人体で最も痛点が多く、痛みを感じやすいです。上腕の外側はあまり痛点がないようです。耳たぶは全くない。

注射をうつ手技の影響もあります。今度のワクチン接種は、たぶん上手な人しか来ないと期待していいと思います。下手な医師は、残念ながら注射をうてないレベルです。こういう人は多分呼ばれない。看護師さんも同じく。

注射針の仕上げの影響は、実は大きかったです。たぶん、痛点に当たらなければ、一番大事。針の刃先や外側の仕上げが良く曲がりがない高い針は見事に痛くないです。

コロナワクチンの注射針はおそらく高い針だと思います。日本の東大阪の某メーカーが作る針が一番良いといわれています。

M.Imamuraさんのプロフィール写真

前回に引き続き、2回目の参加となりました。前回は、「科学」と「技術」の違いについて、先生の経験もふんだんに交えて、分かりやすく丁寧に解説して頂きました。今回は、「科学」の起源から近代に至るまでの流れを説明して頂きました。アリストテレス、アルキメデス、ピタゴラス、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ、ニュートン等の歴史から、科学がどのようにして成り立っていったかを、先生の視点と共に解説して頂きました。

普段改めて考える機会があまり無いテーマなので、自分にとってもなかなか新鮮でした。当時の科学が、その最大のスポンサーであるが故に「教会(キリスト教・カトリック)」と密接に結びついていること、それに派生して、暦を作ることの必要性から発展していった側面もあるとうことでした。

以前、冲方丁の「天地明察」を読んだ際、日本の中で天測(天体観測と測量のようなもの)をし、更にはそこから暦を作っていった人々の物語が描かれていて、とても面白く読んだのを思い出しました。日本でも暦は、宗教(日本の場合は神道、陰陽道等)と結びついており、またそこから時の権力、仕事における始めと終わり、縁起や祭事、占い等生活とも密接に結びついており(従って改暦するということは、権力を象徴する事柄でもあった)、月の満ち欠け、日蝕、月蝕の起こる日を導き出したりするためにも、正確な暦が必要だったのですが、当時江戸幕府で採用されていた暦では正確

前回に引き続き、2回目の参加となりました。前回は、「科学」と「技術」の違いについて、先生の経験もふんだんに交えて、分かりやすく丁寧に解説して頂きました。今回は、「科学」の起源から近代に至るまでの流れを説明して頂きました。アリストテレス、アルキメデス、ピタゴラス、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ、ニュートン等の歴史から、科学がどのようにして成り立っていったかを、先生の視点と共に解説して頂きました。

普段改めて考える機会があまり無いテーマなので、自分にとってもなかなか新鮮でした。当時の科学が、その最大のスポンサーであるが故に「教会(キリスト教・カトリック)」と密接に結びついていること、それに派生して、暦を作ることの必要性から発展していった側面もあるとうことでした。

以前、冲方丁の「天地明察」を読んだ際、日本の中で天測(天体観測と測量のようなもの)をし、更にはそこから暦を作っていった人々の物語が描かれていて、とても面白く読んだのを思い出しました。日本でも暦は、宗教(日本の場合は神道、陰陽道等)と結びついており、またそこから時の権力、仕事における始めと終わり、縁起や祭事、占い等生活とも密接に結びついており(従って改暦するということは、権力を象徴する事柄でもあった)、月の満ち欠け、日蝕、月蝕の起こる日を導き出したりするためにも、正確な暦が必要だったのですが、当時江戸幕府で採用されていた暦では正確さに欠け、例えば伊勢神宮等の力のある寺社仏閣がそれぞれで暦を作って配布したりしていたが、どれも正確さという点では及ばず、正確なものを作ることを当時の権力者は長らく切望しており、江戸中期に算術(数学)を学ぶ人が増えた事も手伝って、ついに「ずれて行かない」将来にも改暦する必要のない暦造りに挑む、という話でした。ヨーロッパも同様といったお話を、大変興味深く聞きました。

そして参加者の多くの方が発言し、活発な議論となったのは、「何故科学がヨーロッパから発展していったのか?」という点でした。様々な視点から意見交換がなされ、大変興味深く聞きました。

自分が思ったのは、やはりヨーロッパで起こった活版印刷が大きく寄与したのではないか、ということです。製紙、製本、活版印刷による紙面、書物が以前と比べると格段の進歩を遂げたのはやはり大きなことなのではないでしょうか。人が成した事柄、技術を、口頭で伝承するのは限界があります。比較的容易に絵や図にして、また保存や持ち運びもしやすい状態になるというのは、画期的な事だったかと。

古代にも、高度な文明(科学文明?)があったとする説は色々と見聞きします。シュメール人の文明や古代バビロニア、アステカやマヤ、古代ロンゴロンゴ語等、解明されていない文明や文字等は様々あります。しかしながら当時は、何かの拍子に滅びてしまうと、記録等が無い為、結局色々と、時には全てが失われてしまう訳で。まあそういうのはダマスカス鋼や中国の青磁や曜変天目等、他にも色々ある訳ですが、肝は記録とその保存、及び学術用語であるラテン語人口の多さ等の様々な要因が重なって、また中国は王朝や為政者が変わったりすると、前政権の様々は滅ぼす方向(焚書坑儒のような)事情もあり発展せず、本当に「たまたま」、様々な事象のタイミングが重なったことによって、様々な「技術」が書によって保管され、重ね合わさっていったことで体系的、普遍的な「科学」となってヨーロッパで更に発展していったのではないかと。そう思わされました。

ちなみに先日とある研修を受けた際に感じた「心理学」の整理、発展にはパーソナルコンピュータとインターネットの普及と発展が大きく寄与していると感じされられました。

とまあ、長々と書いてしまいましたが本当に面白く、興味深く聞かせて頂き、また考える良い機会となりました。Jastac先生に感謝致します。また次回以降も楽しみにしております。