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面白い着眼点のご質問ありがとうございます。個人的な見解や分析を躊躇なく述べさせていただきます。

(非常に長い文章ですので、時間に余裕のあるときにお読みください。内容ごとに1〜13まで振り分けています。)

結論から言いますと、スマートフォンにおいては、iOS/AndroidOSと同等レベルの第3OSを人類はそもそも必要としていない、となります。

こういった議論はできるかぎり広く深く掘り下げて、多面的に、一つ一つ吟味していくのが良いかと思います。


1)まず、携帯電話やスマホは「道具」です。道具というのは、人間が"ある目的"を達成するために用いられるものですよね。人間の生活や活動をより効率的・効果的に促すことができればそれでいいのです。

じゃあスマホの場合、どのような目的を達成できればいいのでしょうか?

相手と連絡を取る(電話、メール、SNS etc)、撮影する、自分のコンテンツをたしなむ(写真、音楽、動画、書籍、メモ)、他者のコンテンツをたしなむ(ウェブ記事、ニュース、SNS、企業サイト、ゲーム、アプリストア)、日々の活動を管理する(カレンダー、リマインダー、アラーム)、移動や作業をより円滑にする(マップ、時刻表、電卓、電子マネー、改札通過)、他の機器と連動する、などなど。

で、これって全部、既存のiOS/AndroidOSでじゅうぶん高い完成度に達しちゃってるんですよ。

質問者様の「iOSやAndroidOSだけではつまらない」という視点・要求は、スマホの存在意義に即したものではありません。言い換えればギークよりの視点であって、人類のほとんどは第3OSを必要としないのです。第3OSが登場したところで、自分たちの生活・活動がよりいっそう効率的・効果的・豊かになるわけではないのです。むしろ選択肢が煩雑になることで一般ユーザーは混乱しかねません。


2)この世には80:20の法則(パレートの法則)というのが存在します。これはスマホOS市場にも適用できて、「80:20 = Android:iOS」の関係が成り立ちます。

これはただの理屈ではなく、実際に2016年第4四半期時点でAndroidのシェアは81.7%でした。

また両者の性質を掘り下げれば、iOS(iPhone)は「使い心地・簡単・安全・高品質・高級感・エコシステム・アップデート性」、Androidは「ハードの多様さ、低価格、カスタマイズ性、Googleサービス、シェアの大きさ」など、お互いがお互いを補い合うかのように一長一短を確立しています。そして両者に共通しているのは、アプリが多いこと、操作性が統一されていること、そして世界中の人々が深く馴染んでいることです。

ここまで整ってて、どうして3つ目のOSが必要なんでしょう。


3)経済面について。OSを開発するとしましょう。企業としてはお金を稼いでいかねばなりません。オペレーティングシステムという"複雑巨大な超構造体"は開発に途方もない時間と手間を要し、長期にわたって管理・運用・洗練されなければならないので、当然それに見合う金銭的見返りを考慮に入れる必要があります。

ここで物理的性質の話。大きな金銭的見返りを得るには、お金がたくさん流入すればいいわけです。お金をたくさん流入させるには、お金がたくさん流れつづければいいのです。お金を流れつづけさせるには、情報・データ・ハード・人間が流れつづける仕組みをつくり、そこに"お金の縄"を引っかけてあげればいいわけです。

ということは、その新生OSが地球上の情報・データ・ハード・人間の流れを(iOS/Android以上に)促すような革新性や魅力を打ち出す必要があります。1、2の説明でもうお分かりのように、ムリです(^^)

つまり第3のOSは、経済的合理性がまったくありません。


ここまででも回答になりますが、もうちょい踏み込んでいきます。

4)スマートフォンの王者であるiPhoneと比べて考えてみましょう。

iPhone/iOSはそれ単体で魅力や機能が成り立っているわけではありません。その隣にはiPadがあり、Macがあり、Apple WatchやApple TVがあります。操作性やデザイン言語も統一されています。

それらハードの背後には、iCloud、フォトストリーム、Safari、AirDrop、Handoff、Siri、各コンテンツStore、Apple Music、CarPlay、WAVより少しマシな非圧縮AIFF形式、2017年導入された業界最高品質のファイルシステムAPFS、使いやすい統合開発環境Xcode、爆速で進化し続けるプログラミング言語「Swift」、そしてiPhone/iPad/Macアプリを1つに統一するMarzipanプロジェクトなどなど、巨大な生態系が横たわっています。

モバイルOSを開発するとしても、上記のような生態系をこれから築くのに何十年かかるでしょうか。それでも2019年時点のアップルにやっと追いつけるかどうかです。スマホ・タブレットOSとしては完成度は高まるかもしれませんが、アップルには完成度の高いUnixコンピュータもあります。ここをこれから揺るがしていくのはマイクロソフトでも困難です。

しかもアップルは業界の中でもダントツでUIデザインや美意識に優れているわけで、それを超えるセンスもOS開発陣に求められてくるでしょう。アップル製品の高度なタッチ感度・機能性と同レベルのものを実現しているメーカーはないと思います。

ひとりのiPhoneユーザーにしてみれば、お金さえあればiPadに魅了され、Macに魅了され、そっちのエコシステムにコロッと転がっていくのは一瞬のことです。

別にクローズドなOSを開発するわけではないにせよ、長期発展を目指すなら(シェアを奪いに行くなら)この帝国と渡り合っていくくらいの気概・展望は必要でしょう。同じ地球上に存在しているんですから。


5)ハードに着目してみましょう。

5インチ前後のカード/お札サイズの"一枚ハード"はすでにコモディティ化しています。Retina Display、本格的な高画質カメラ、それでいて薄型化を実現した「iPhone4」でスマートフォンは(form factorとしては)一種の完成形に到達していました(2010年)。

前面をタッチスクリーンが覆う形態では、物理UIで革新を起こす余地はありません。顔認証・防水・無接点充電も実現されました。余地があるとすれば、ディスプレイ、カメラ、バッテリーの3点です。

・ディスプレイ:より高度なタッチフィードバック?ソーラーパネル内蔵?指紋識別?鏡面化機能?ホログラム?

・カメラ:要は本格的なカメラ機材になっていくわけでしょ?(ARはソフトウェア技術)

・バッテリー:究極的には充電不要?

これらの理想が実現されたとしても、市場としてはカメラ市場を侵食していくくらいですかね。「ポケットから取り出して片手で使う」。もはやスマホは、ハード改革で既存の生活スタイルに大きな変化をもたらす伸び代はないと思います。

それとも、アイアンマンのごとくガチャガチャと変形して本体四隅から4つのプロペラが立ち上がり、ドローンと化しますか?本体背面からフックが出てね、バッグや買い物袋を運んでくれるんですよ。Siriに声かけて指示します。タケコプターならぬSiri-copter。スマートウォッチを介してユーザーに追従し、ディスプレイ上にホログラムを表示させることによってユーザーに視覚情報を示すこともでき、高性能なディスプレイ内蔵ソーラーパネルによって電源を自給自足します。

なんだかワクワクしてきますが、第3OSじゃなくてもいいですよね?


6a)メーカーのアプローチに着目していきます。

まず、ディスプレイの中をいじってシミュレーション実行するコンピュータ系デバイスの場合、その実体はハードではなくソフトウェア(OS)になります。OSが本体であって、ハードは窓枠・表皮にすぎません。

実は工業製品界において、本当にパワフルなのは"ハードウェア"ではなく、物理的な実体をもたない"ソフトウェア"のほうです。ソフトウェアがハードを支配します。極端に言えば、ハードはソフトウェアと現実世界の"仲介"を担っているにすぎません。タッチスクリーンは人間の指の状態をOSに伝え、カメラは外の景色(光)をOSに伝えます。原子をもつハードよりも、原子をもたないソフトウェアのほうが「次元」は上です。上流から下流へ流れるように、高次元が低次元を支配します。

(イーロン・マスクもそれを理解していて、彼は電気自動車、ロボット(製造自動化)、ロケットのような重厚長大産業においても付加価値を「ソフトウェア」にシフトさせています。テスラの電気自動車は「走るサーバー」と言われ、業界標準となるべき優れたセキュリティ設計をすでに構築しています。)

『提携先を自由に選び主導権を握るのは自動車大手ではなく、ソフト・サービス、そしてその裏にある膨大なデータを既に使いこなす側だ。自動車大手は振り回される側にいることをいやがうえにも学習させられることになった』

(「イーロン・マスクの世紀」)

つまりコンピュータ系デバイスを(ユーザー体験を軸として)うまくデザインするには、本来ソフトウェア(OS)に比重をおいたうえで、(円の中心から外へ放射するように)ハードへと統一的にデザインしていくべきなのです。GUIやキーボードも含めて。

それを一社、もしくは一人の情熱あるヴィジョナリーが終始、細部まで目を光らせて取りかかっていくのが理想です。この時点でご質問にあります「各社合同」は理想的ではありません。


『ソフトウェアに対して本当に真剣な人々は、独自のハードウェアを作るべきだ』

- アラン・ケイ


6b)アップル以外でこの論理を実行したのが、中国のシャオミです。この会社のアプローチは珍しく、創業時、まず最初に手を付けたのがOSでした。Androidをベースとした独自カスタムOS「MIUI」をまずリリースし、ユーザーからフィードバックをもらいながら毎週ペースで猛烈アップデートのサイクルを築き、ユーザー数増加の勢いを構築、それからハードとしてのスマホを投入しました。そして中国・インドなどの低価格市場でシェアを伸ばしつづけ、MIUIの発表から1年後にはユーザー数は50万人に達し、創業4年でスマホの世界シェア3位にまでのぼりつめてしまいました。

創業メンバーのひとりは次のように述べています。

『スマートフォンというハードウェアを使っているつもりでも、実際のユーザー体験の大半はソフトウェアによるところが大きい』

(『シャオミ 爆買いを生む戦略』)

OSから取りかかることを考えれば、彼のような理解者が内部にいるであろうことは容易に想像できます。彼らはソフトウェアとユーザー体験を重視していました。

2013年にソニーの平井一夫前CEOはスマホ事業について「世界3位に確実に入っていきたい」と語っていましたが(Sony平井社長「Xperiaでスマホ世界3位に」 日本・欧州を重視)、それを実現したのはシャオミのほうで、ソニーはカメラレンズをシャオミのスマホに搭載するのがやっとでした。

OSを手がけない者は、手がける者に屈服させられるのです。

さて前置きが長くなりましたが、他の方が詳しく解説してくださっている歴史を見ておわかりのように、第3OSに注力しようとしている連合はいずれも「OSメーカー」と「ハードメーカー」が分離しています。つまりこの時点で、「ユーザー体験」を軸とした展開に希望はありません。様々なレベルでグダグダになるからです。

アップルは文化的に「ユーザーインターフェイス企業」であり、"ユーザー体験志向"です。OS+ハード=シングルUIです。巷ではこれを「クローズド」という後ろ向きなニュアンスで解釈されています。

対してグーグルは「インフラ屋」であり、"データ流動志向"です。AndroidOSは無数の端末に対するインフラ的な役割を担うことが、存在の第一理由です。グーグルがいち早くスマホOSに飛びついたのも、当然と言えば当然なのです。

つまり、打倒 iOSならユーザー体験志向でいくべきなのですが、先の説明の通り、ほとんど無謀です。となるとあとはAndroid的なアプローチ(OSのインフラ化)くらいなのですが、そのアプローチの成否は「市場シェア」が物を言います。そして市場シェアの獲得は「投入スピード」にかかってきます。つまりもう手遅れなのです。


6c)Windows Phone OSはデザイン言語としてはよくできていて、Androidよりもシンプル、iOSよりも自由というちょうどよいバランスを実現していました。しかし歴史に目を向けてみるとどうでしょう。

WP7とWP8はOSの基盤仕様が異なるため、7デバイスを8へアップデートすることができませんし、アプリも7と8両方で動作させることができませんでした。バージョン的には1つ違い、時間的には2年差のリリースであるにも関わらず、ハード的にもアプリ的にも互換性がなかったのです。iPhoneが登場した3、4年後にこうもまごついていました。

内部の人によれば、iOSとAndroidが台頭する状況下、ユーザーと開発者を少しでも早くWindows Phoneプラットフォームに誘うために、8まで(2012年まで)待つわけにはいかなかったそうです。そのグダグダWPの隣では、あのiPhone4がスマホ普及を加速させていました。

スティーブ・バルマー傘下のMSは動きが鈍すぎました。Windowsという世界規模の資産をもっていながら「人々のポケットに常駐するOS」を自分たちのものにできなかったのは、企業として(相対的に)途方もない損失になりつづけるだろうと思います。

ちなみにジョブズがiPhoneを発表した当時、インタビューでバルマー氏は「世界一価格が高い電話」「キーボードがなく優れたe-mailマシンにはならない」とiPhoneのことを嘲笑しています。

Youtube:Ballmer Laughs at iPhone


6d)なお、僕はMIUIもWP8も使っていた経験があります。その経験から言うと、第3OSが確立されるとすればWindows Phoneがなるべきだったと思っています。世界にはWindowsユーザーが無数におり、デザイン言語も良質だったからです。だってアップル製品以外で選択肢を考えた場合、PCのベースはWindowsなのに、なぜスマホのベースはAndroidなんですか?設計基盤もUIも派生的つながりも何も関係ないですよね。企業側の都合です。

むしろ第2OSがAndroidではなくWPだったら、人類はもっと幸せになっていたのではないかと思うほどです。

ジョブズも生前、WPを褒めていました。

『人生の終わり頃には、Microsoftの最新のモバイル・ソフトウェアを、独創性があると褒めていた。「少なくとも彼らは、グーグルみたいにわれわれをコピーしなかった」と。』

(『インサイド・アップル』)

MIUIは一消費者としては楽しめましたが、iOSをパクるばかりで創造性に欠けるので(素晴らしいUIも所々ありますが)、iOSを凌駕する(もしくは業界をリードしていく)存在にはなるのは難しいかもしれません。

ちなみにモバイルOSと言えば、2017年にリリースされたばかりのフィーチャーフォン向けの「KaiOS」というものも存在します。スマホを買う余裕のない地域・人々にインターネットをもたらすことが目的のようで、インドではiOSよりもシェアが大きいそうです。


7)先ほど、次元がどうとか述べましたが、実は「ハード屋」がソフトウェアを手がけていくのは困難なんです。低次元->高次元へシフトするのが難しいためです。

「ソフトウェアエンジニア」が「ハード開発の世界」へ入るよりも、「ハードウェアエンジニア」が「ソフトウェアの世界」へ入るほうが難しいはずです。ハードのほうは日常の物理的感覚(物質・素材・熱・電磁気の性質)の延長線上にあるので受け入れやすいのですが、ソフトウェアの世界はあまりに非現実的で、平面の世界であるにもかかわらず複雑、独特な概念が支配しており、それまで培ってきた日常の物理的感覚を活かしづらいためです。

ソフトウェアに強い工業デザイナーなんてほとんどいないでしょう。

アプリやOSの複雑さは、リモコンや家電の制御プログラムとはわけが違います。ハードよりもソフトのほうが"構造"ははるかに複雑で、維持・管理ノウハウを長期的な取り組みを通して学び、徹底した管理の重要性を痛感する必要があります。

『現在の技術レベルでは、ハードウェア開発よりソフトウェア開発のほうがはるかに困難で手間がかかる。パーソナル・コンピュータは、ゆくゆくは規格品のコンポーネントを組み合わせて製造するようになるだろうが、ユーザーのアイデアに命を吹き込むソフトウェアのほうは、それがパーソナルで動的な媒体という目標を達成するためのものなら、長くつらい洗練の作業を要求されることになる』

- アラン・ケイ(1977年)

同じように、「OSメーカーがハードに手を出す」よりも、「ハードメーカーがOSに手を出す」ほうが難しいはずです。その良い例が、Surfaceプロダクトを出しているマイクロソフトです。業界であっという間に不動の地位を確立してしまいましたよね。それだけでなく、OSメーカーがハードまで一貫して手がけたほうが、そのハードのデザインもより洗練されたものとなります。

この因果を理解するのは簡単ではありませんが、おそらく作り手の思想が精妙に反映されやすくなるからなのかもしれません。現代科学ではまだ解明されていませんが、人間の心は肉体を支配します。工業製品においても、その自然の摂理が働いていると言えます。

『もしも心が脳にこのような影響を及ぼすことができるのであれば、もしも脳が心の道具にすぎないのであれば(もっとも重要な道具だが、それでも道具でしかない)、私たちはこの道具を発達させ、改善する方法を見出すことができる。誰も生涯を通じて、脳の限界から逃れられずに縛られる必要はない』

- アルフレッド・アドラー(『人生の意味の心理学(上)』)

会社としても、ハード開発とソフト開発とでは文化がまったく異なるので、社内体制を整えるのは容易ではありません。たとえば自動車においても、従来の大手自動車メーカーがテスラのようなソフトウェア重視体制を築くのは難しいと思われます。


8)最後にもう一点。

スマートフォンというのはきわめて消費志向なフォームファクターです。ディスプレイの絶対的なサイズ(7インチ未満)が小さすぎるからです。人間の知性や生産性を高めることを前提とするならば、少なくとも10インチ前後のサイズは必要です。

たとえば長文を読むとき、人間の目は周囲の文章も無意識にスキャンしており、一文一文だけではなく「何行分もの塊、横長直方体のまとまり」で文意を把握する能力があります。そのためスマホのような小さいディスプレイでは、長文の理解力はそれなりに低下してしまいます。

ネットサーフィンをするときでも、スマホでは一度に表示できるコンテンツ量やUIパーツが大幅に省略されるため、周囲の情報を探求しづらくなり、情報リテラシーは低下します。

タイピングにおいても、もっとも効率的なのは「両手10本指をフルに導入すること」です。そして、思考にあるフワフワしたものを"長文"に落とし込む作業(アウトプット)を繰り返すことで、人間の思考は整理され、インプットはようやく正しく消化され、知性の向上につながっていきます。

長文を読み、長文をタイプする。これがスマートフォンでは著しく制限されます。プログラミングに手を出す機会も得られません。

メーカー側に立ってみても、画面が小さいのでGUIデザインの伸び代がありません。タブレットのように、フルサイズキーボードと一体化させることもできないし、スタイラスペンという余地もありません。このような小型消費志向ファクターでは、Linuxのような開発系用途としての市場ニーズもほぼゼロでしょう。

ホリエモンは「いまの時代はPCスキルなんていらない気がする」なんて言っていますが、「機能としてできる」ことと「流暢に本格的にこなせる」ことは別物です。大切なのは後者です。

ホリエモン「いまの時代はPCスキルなんていらない」

つまり何が言いたいのかと言うと、スマホ市場ではもはや革命を起こす余地がほとんど残されていないということです。生産志向と比べ、消費志向なフォームファクターは本質的に拡大性が小さいのです。(一方の生産志向の領域では、SurfaceプロダクトやiPadOS、MacのTouchbarのようにまだ開拓の余地があります。)

多くのハードメーカー・通信会社が結束してでも第3OSにこだわるのは、世界中にユーザーがいる巨大な(お金になる)スマホ市場で、自分たちの自由度を高めたいからに他なりません。スタート地点が、企業側の"我欲"なんですよ。

メーカーたちはその利己的な、スマホ市場への執着を手放し、別の領域を開拓していくべきだと思います。いらぬ苦労はせぬもの。


以上でほとんど回答になっているかと思いますが、ご質問には「なぜ日本の携帯電話メーカーは」とありますので、日本についても触れていきます(※ここからが長い)。


9a)実は日本という国は、テクノロジーに強いイメージがありますが、ソフトウェアには比較的弱い国です。ハード部品技術は世界トップクラスで、iPhoneの何割かは日本製などと言われるくらい、建築技術も世界一だと言われています。しかし国産かつ"世界中で"使われ続けているコンピュータのソフトウェア資産なんてあるでしょうか?

OSは言うまでもなく、ブラウザも検索エンジンもクラウドストアもオフィスソフトもSNSもAmazonもYoutubeもWordPressも、画面上で使うものの主流は海外製ばかりです。

日本のソフトウェア業界は不健全で、土木業界のように、設計・仕様を決める上の会社が下請けにプログラムを作らせて期限までに納品させる、という「ゼネコンスタイル」が長らく横行してきました。つまりプログラミングは"底辺"で、創造性もない末端の下請け作業にすぎないのです。シリコンバレーが一流のシェフを世界中から集めて臨んでいるのだとすると、日本は学生アルバイトに押し付けているようなものでしょう。

日本のITはなぜ弱いのか? 日米でこんなに違うプログラマーの扱い

日本ではプログラマー/ソフトウェアエンジニアは、中高生から憧れられるような職種ではありません。シリコンバレーのように、全面ガラス張りの広く明るいオフィスでカラフルなデザイナー家具に足を伸ばしてキーボードを叩いたり、食べ放題のバイキングのある環境でくつろぎつつ世界を席巻するサービスと富を生み出す大スターのような印象はありません。

たとえば僕の勤務先にダブルワークでバイトに入った女性がいましたが、彼女はもともと都心のIT企業でエンジニアとして働いていた方でした。話をきくと、その職場は、パソコンを傷めてはいけないからと窓はブラインドをかけられ、日中も薄暗い室内で毎日のように深夜まで仕事をする日々だったそうです。けっきょく彼女はうつ状態になり3年で退職。消極的に個人事業主を選んでいました。


9b)僕は大学を国内の情報通信工学科で過ごしましたが、まあ悲惨でした。1年目のC言語の授業はパソコンをまったく使わず、教授が黒板に書いたコードを生徒がノートにペンで書き写す、という意味不明な方法で、毎年半数の生徒が単位を落とし、プログラミング嫌いを量産していました。

LinuxPCが並んである演習室でプログラミングの授業もありましたが、レポート(LaTex文書)はプリントアウトしてホチキスで止める"紙"の提出が原則でした。

プログラミングを学ぶ学科であるにも関わらず、学生たちはノートパソコンを持ち歩くことは決してなく、講義で机にPCを出すようなことがあれば浮いてしまうような雰囲気でした。情報工どころか大学としてどうなんでしょうか。

同級生たちもソフトウェア技術を理解できない人たちばかりで、Linux/Terminal/Emacsなどを授業で扱っているにも関わらず、UnixであるMacを心から蔑視する人が何人もいました。学科生の大半はWindowsユーザーで、Macユーザーは自分以外に知りません。教授陣でさえもMacユーザーが一名のみだったので理解に苦しみました。iPhoneが普及する前後の2009〜2012年の話です。

(あくまでUnix-likeであるLinuxと違い、macOSは本物のUNIX。UNIXは思想哲学に優れた60年代生まれの太古OSで、その思想哲学はプログラミング界で伝統的に受け継がれており、堅牢なmacOSのコアとなっています。この頃のOS Xはジョブズが手がけたLeopard~Lionの時代で、後に登場するWin8さえ軽く凌駕する完成度をすでに実現していました。)

僕は自分のMacBook上で演習室PCと同じ環境を構築することができ、同級生たちが土日も大学へ出向いてレポート作成しないといけない中、自分は自宅でプリントアウトまでできました。その環境を構築すること自体がコンピュータ原理の学びを深めることにつながりました。

一方の同級生たちでプログラマー/ソフトウェアエンジニアを志している人はほとんどおらず、過半数はプログラミングもろくに習得しないまま卒業していきました。

『日本の大学ではソフトウェア工学分野は比較的手薄である。ソフトウェア工学を中心とする学科やコースの数はきわめて少ない。情報科学科や情報工学科の中で、部分的に教えられたり研究されているのが実態である。教授団にソフトウェア工学を専門とする者の数もそれほど多くないが、企業の研究者が大学に移るという形での人材供給が増えつつある』

(「ソフトウェア社会のゆくえ」)


10a)いくつか事例を挙げていきます。

1) たとえばゲーム機としては異例の超高性能プロセッサ「Cell」を搭載していたPS3。

当時SCEのCEOだった久夛良木氏はPS3を「従来のゲーム専用機の枠に留まらない、エンタテインメントに特化した家庭用スーパーコンピュータ」とし、PS3を中心としてCellを搭載した機器がネットワークで繋がることによって、家庭の中に「Cellコンピューティング」を構築させる未来を描いていました。

野心的ではありますが、OSが抜け落ちているんですよ。あくまでCPUを中核とするハード志向な構想です。一部の研究機関や軍には大量導入されたものの、消費者にはコンピュータとして認識されず、初代ではインストールできたLinuxも無効化され、結局ゲーム機に成り下がりました。

本当に家庭内コンピューティングを支配したいのであれば、デスクトップコンピュータを駆逐するヴィジョンまで描き、長期スパンでOSを地道に育て、娯楽用途だけでなく本格的な生産性を発揮する設計にすべきだったと思います。


2) 2015年に発表されたVAIO Phoneもあくまでハードを売るだけのアプローチ。その記事によれば「VAIOというグローバルでアップルと対抗できるブランド」らしいですが、今はスマホ事業ごと消えています。

3) キングジムのテキスト入力マシンに「ポメラ」という製品があります。開発者の話では、Androidだと消費電力が大きすぎるということで、Linuxをカスタマイズした独自OSを搭載しているとのこと。

で、日本人って独自OSを開発したとしても、それを決してブランド化しないんですよ。

シャオミは独自OSを「MIUI」としてアピールしていますし、ノルウェー発のペーパータブレット「reMarkable」シリーズでもCodexという独自OSを採用、KindleやAmazon EchoではFire OSが使われています。自動車メーカーであるテスラでさえも一時期は公式HPに車載OS専用ページを公開していて、まるで一つの製品かのように「OS3.0」とデカデカとアピールしていました(確かモデル3発表前)。

独自OSをブランド化させるメリットは、ハードが世代交代しても、同一の操作性やユーザー体験を引き継ぐことができ、機種間のシステムフォーマットを統一できることにあります。これが単体ハードを超えた"生態系"に繋がっていきます。

ところが日本企業は「OSを一つの製品として扱う」ことを絶対にしません。任天堂もプレイステーションもそう。日本人にとっては「ハード、デバイス、端末」が主であって、OSなんてのはしょせん「一時的な組み込みプログラム」にすぎないのです。影/裏方の存在であって、ハードより出しゃばっちゃいけないんです。

また僕が観察してきた限り、日本人は「単体ハードたちを無線通信で連携させる」という発想は好むように思います。先のPS3やポメラもそう、赤外線で連絡先を交換できたガラケー、ニンテンドーDSシリーズ、近距離無線通信のNFCなどもそうです。それかオンラインサービス止まり(iモード、プレイステーション・ネットワークなど)。しかしOSレベルで統一しようという発想に、どういうわけか至りません。


もしくは、PCのCPUをもち、WindowsとSymbianの両OSが動くガラケーでiPhone/Androidに対抗しようという安易な発想を抱いたりします。次の記事は機械設計者による開発現場のお話ですが、おそらく富士通のWindows7ケータイではないかと思われます。

あの頃、僕たちはiPhoneもAndroidもぶっ潰したかったんだ


国内大手家電メーカーの経営陣とも関わりのある中島聡さんは次の記事でこう述べています。

第11回 Appleのビジョンと日本のハードウェアメーカーの将来:Software is Beautiful

『当時(2002年)は本業のエレクトロニクス事業が低迷しはじめ,PlayStationビジネスからの収益が会社を支えているという状況であった。外から見ていても,各機器に搭載されているOSがPlayStationは独自OS,PCはWindows,PDAはPalm OS,携帯電話はSymbianという状況はソフトウェア戦略の欠如を意味していたし,ハードウェア企業からソフトウェア企業への転換がうまくいっていないことは明確であった』

『タブレット開発をしている日本のPCメーカーの経営陣と会ったことがあるが,タブレットを作る理由が「PCメーカーとしてはタブレットを作らないわけにはいかない」という消極的な理由だったので呆れてしまった』

『ハードウェアは自分たちで作り,ソフトウェアの開発は外注に丸投げするのでは世界で戦えるデバイスは作れない。ハードウェア作りで日本の高度経済成長を支えてきたという成功体験にいつまでもしがみつかず,ハードウェア・ソフトウェア・サービスをエレクトロニクス産業に不可欠な3つの柱と捉え,選択と集中で世界一を目指す企業にならなければならない。ソフトウェアエンジニアが「ぜひともここで働きたい」と思えるようなハードウェアメーカーに生まれ変わって初めて,Appleと同じ土俵で戦えるようになるし,21世紀のエレクトロニクス業界の牽引役にもなれる』


10b)高城剛さんのメルマガ『高城未来研究所』の2015年2月6日発行号で、高城さんは興味深いお話をされています。

『いまから10年以上前、当時iPodが全盛の時に市場を取られて困っていた日本の家電メーカーに頼まれ、iPodを超えるような、いままでにない商品を企画してほしいと請われ、ふたつの商品アイデアを僕は考え提案しました。

ひとつは、大型のPDAです。当時、その会社はPalm社からライセンスを受け、PDAを発売していました。僕は、拡張性がある自社OSを使用した、B5サイズぐらいの「ただ大きなPDA」を作ることを提案しました。その理由は、「いままでにないサイズ感」に他なりませんでした。

もうひとつは、腕につけるデバイスです。「耳」をiPodに取られ、おそらくこれから「目」もApple社が攻めてくるだろうから、先回りして「腕」を抑えることをしたい、と提案しました。デザインとしては腕時計型で、そのディバイス自体がiPodなどと連動し、振動により「音楽を感じる」ことができるモノで、5年後にマルチ型のディバイスが他社から出来た時には(いまでいうiPhoneのような)、その「ディバイスのディバイス」としてのポジションを、いまのうちに押さえておくことが大切だ、と提案しました。なにしろ、「腕」の競合は、カシオのGショックしかなかったからです。

モチロン、理解されることはありませんでした(笑)』


中島さんや高城さんのように先見性のある方が提案したとしても、経営陣が理解できないのです。

また、2016年9月16日発行号にて、あるハードメーカーの方からの質問が寄せられていました。

『デジカメ、ラジオ、レコード、電卓など、あらゆるハードウェアがソフトウェアにそのポジションを取って替わられシェアを大きく失なってしまいました。

このような代替品としてのソフトウェアとの競合を踏まえて今後、スタンドアロンのハードウェアの開発メーカーはどのような形でその優位性を高めていくべきでしょうか?

これだからハードウェアはたまらないんだよなぁ!とユーザーが心底思ってくれるハードウェアを作りたいです』

この方のように、日本人は「ハードVSソフト」という捉え方をする傾向があるようです。ハードウェアとソフトウェアを一心同体で捉えることができず、二人三脚で発展させるという発想に至らないのです。2010年代という時代においても「優れたハードを作ればなんとかなる!」という、ラジカセ時代かのような古い思考回路から抜け出すことができません。

日本人にとっての「ソフト」はゲームソフト・ウイルスソフトのようなパッケージソフト、つまり"コンテンツ"であって、"システム"ではないのです。英語の”Software"は広義にはクラウドサービスやウェブも含むことができますが、"ソフト"はそれらを含むことができません。


『われわれは、ハードウェアとソフトウェアは車の両輪のように、同じようなスピードで行くものだと思っております』

- 盛田昭夫(1989年 コロンビア映画 買収記者会見)


一方、Surfaceを手掛けるMSが公開している動画「Microsoft Surface | Craftsmanship」では、ハード開発の映像であるにも関わらず、冒頭で流れる言葉が、

『私たちがデザインするすべてのプロダクトは、ハードウェアが消え、ソフトウェアが生活に入り込んでくることを目的とされています』

です。

ハードメーカーがこういう捉え方をすることはまずなく、特にハード志向の日本人にとってはありえない発想ではないでしょうか。

スタンフォード大学名誉教授のインタビュー記事「日本人は「ロボットの心」を創れますか?」 からも一部抜粋します。

『日本企業がアップルやグーグル、マイクロソフトに追いつくのは不可能と言わざるを得ない。この理由は明確です。日本はこの手の開発をしてこなかったからです。

ソフトウェア開発が得意ではないことに加え、この問題を真剣に捉えようとしませんでした。ソフトウェアは蒸気のようなもので目に見えません。つまりアトムではありません。日本のビジネス文化は目に見えないソフトウェアの重要性を理解しませんでした。大学を卒業し、電気エンジニアとして働くことが良しとされ、プログラマーは活躍の場もなく、正当な評価もされなかった。

そのうちプログラマーはソフトウェアエンジニアと名を変えましたが、このときも日本の人たちは笑いました。空気をやり取りしているだけじゃないかとね。この認識は日本の文化に根深く残っており、その認識が大学や企業、デザイン分野に関してまで影響を及ぼしています』


日本独特のFAX文化、原本主義も、この精神文化によるものと言えそうです。


iPodが存在する理由は、ポータブルミュージックプレイヤーの市場をつくって独占していた日本の企業が、ソフトウェアを作れなかったからです。iPodはただのソフトウェアですから。

それをつなげるコンピュータもMacもソフトウェアだし、クラウドストアもソフトウェアです。MacもOS Xが美しい器に入ったものですし、iPhoneもそうなるはずです。Appleは自身をソフトウェア会社だと思っています。

スティーブ・ジョブズ(2007年、D5カンファレンス


11)日本人はソフトウェアをうまく尊重できないだけでなく、GUIデザインのセンスにも難があります。

たとえば僕はコンピュータで長年「Google日本語入力」を使ってきていますが、最近ATOKをインストールしてみたことがあります。そのときに驚いたのは、「シンプルに使わせてくれない」ということ。

インストール後の誘導、メニューバー、環境設定に"選択肢"が散らかりすぎていて取っつきにくいのです。Mac版ですが、設定項目が「OSの環境設定、アプリ内の環境設定、メニューバー」の3ヶ所に分離していました。アプリ内の環境設定などは項目数がすごい量で、Macアプリらしくありません。(画像は公式サイトから借用)

Macでは普通、左の縦リストに見出し項目を大量に押し込むことはしませんし、その縦リストを"タブ"として使うこともしません(タブとして使うUIパーツではない)。しかも中央の上にもタブがあるので、UIの役割がかぶっています。

驚愕だったのは、Windowsではお馴染みの「あ/A横長バー」がデスクトップ右下に表示されていたこと。「なんか浮かんでる!」「これはないな」と思ったんですが、macOSの上部ステータスバーがすでにその役目を果たしているので過剰です。

先ほどMIUIは創造性に欠けていると言いましたが、日本の大手メーカーではMIUIレベルのデザインさえ生み出せないと思います。

では日本メーカーがスマホOSを作ったとしたら、どんな使い心地になるのか。

ソニーの「ウォークマンAシリーズ(NW-A50)」を量販店で触ってみましょう。

2.2インチの小さい画面であるにも関わらず、ボタンがところ狭しと敷き詰められ、アイコンと文字が同サイズ、UIの階層構造や空間配置に"秩序"や"ゆとり"はなく、文章による説明があちこちにあります。「設定」はホームではなく、右下ボタンのメニューに押し込められています。

ちなみに2.5インチのiPod nano 第7世代はこんな感じ。

おまけにウォークマンのスクロールはいびつ。(これは日本製タッチ操作インターフェイスのお約束^^)

「カラフルな/小さいボタン」を「上下左右」に「大量に」並べる。この単調さが、国内大手メーカーのUIデザインのセンスです。

さらにアイコン主体の視覚優位ではなく、文字をやたら読ませようとします。ダイソン製品やApple TVのリモコンのように、抽象的なアイコンだけで済ませる勇気がありません。彼らは有機的なデザインを生み出すことができないのです。

ある時、しばらく中国に住んでいた同い年の女子(日本人)が職場に入ってきました。彼女はそれまでLINEを使ったことがなく、スタッフ同士のやり取りに必要だったため使い始めます。そんな彼女が言うには「LINEはなんか全体的にごちゃごちゃしてる」「WeChatの方がシンプルに使える」だそうです。

いまやUIデザインもソフトウェアも中国人のほうがセンスが高いと言えるでしょう。

ゲームプランナーから家電業界のプランナーに転身した友人の感じたこと


12a)他のご回答にも出ていますが、日本には「TRON」という国産OSがあります。

まだ初代マッキントッシュすら発表されていない1984年に、コンピュータ科学者、坂村健氏が打ち出したOS構想です。大量のコンピュータが生活に入り込むことを想定し、組込みOS、パソコン用OS、デジタル電話機用OS、専用CPUのトロンチップ、トロンキーボード、共通ファイル形式など、コンピュータまわりの理想の環境をゼロから丸ごと一式作り上げようとした壮大なオープンソースプロジェクトです。

これは実際に開発が始まり、当時の文部省や通産省が教育用コンピュータとして採用を決め、そして米国IBM含めた国内外の百近くもの企業がトロン協会のメンバーとなりました。このまま行けば、教育向けトロン(BTRON)パソコンは教育市場の大きなビジネスとなります。

ところが、ここで米国から横やりが入ります。洪水のごとく流れ込んでくる日本の対米輸出に苛立っていた米国は、対策として「スーパー三〇一条」に基づく障壁リストにトロンを挙げたのです。「半導体」「航空宇宙」「自動車部品」といった分野名が挙がる中、トロンだけは異例の名指しでした。実際、トロンをリストに含めた理由は、米国のIT産業を守ることが目的でした。

トロン協議会は抗議し、トロンはリストから消されることになったものの、時すでに遅し。これがきっかけで教育用パソコンへの採用はなくなり、80以上もの企業がトロンから撤退していき、開発は頓挫してしまいました。そしてご存知のように、その5年後、Windows95が世界を席巻することとなります。

ここまで読むと日本が被害者のように感じられますが、日本政府も対米輸出で利益を出しているメーカーも、米国の逆鱗に触れないよう、ひたすら「事なかれ」の姿勢だったようです。

実はトロン挫折には、ソフトバンクの孫さん、ソニーの盛田昭夫さんも大いに関わっています。

TRONシステムは一見よさそうですが、孫さんだけはキナ臭さを感じていました。「日の丸OS」などと旗を振りながら、日本で統一企画のコンピュータを使えば住みよい社会がやってくるなどと言っている。確かに、それが世界の標準規格となれば素晴らしいことです。しかし、発想の根源には日本人がつくったものは正しく、外国人がつくったものは間違っているといった、島国日本らしい排他主義的な響きがあると彼は感じていました。

『孫正義 起業の若き獅子』によれば、孫さん、坂村健氏、西和彦氏の3名のパネルディスカッションにて、孫さんは坂村氏に対して直接、異を唱えています。

『坂村さん、あなたが提唱しているTRONの大義名分、車のハンドルやブレーキと同じように、パソコンの操作性やソフトの互換性を統一するのはわかります。そして、アメリカの技術ばかりを受け入れていることに忸怩(じくじ)たる思いがあって、日本が開発した技術を広めたいという気持ちもわかる。

それはひとつの正義です。ただし、狭い正義です。日本だけで通用して世界に通用しないのであれば、まったくの鎖国にすぎないではないですか。いずれ、世界の流れのなかのスタンダードで自然に統一されます。たとえば、マイクロソフトの製品がそのような形で受け入れられはじめているではありませんか』

その後の89年はじめ、孫さんはソニー会長の盛田昭夫さんにこの問題を打ち明けました。

『日本の国益を守るべき通産省が、政策として海外のコンピュータ製品を締め出そうとしています。これはまさに鎖国です。いまの国際状況にそぐわないばかりか、日本の技術が遅れてしまいます』

経団連にはたらきかけ、日本が世界で孤立しないよう日夜努力していた盛田さんは、孫さんの言葉をすぐに理解し、通産省の役人を紹介しました。その後、アメリカが発表した「貿易障壁報告」には、孫さんが危ぶんでいたように「TRONを小・中学校に導入しようとしているのは、政府による市場介入」だとする懸念が指摘されていました。

これがきっかけで、三〇一条を楯にプロジェクトを潰してしまえ、という孫さんのアドバイスにより、通産省はトロン導入を中止したのです。


12b)トロンOSは組み込みOSとして、これまでにさまざまな機器で使われてきており、最近ではニンテンドーSwitchのコントローラ「ジョイコン」の無線通信制御OSとして使われています。ただ、この「OSの名前が世間に出てこない」ことや、特定ハード用にカスタマイズされた制御プログラムだというところが、いかにも日本的です。

実際、坂村氏は昔あるテレビ番組で、司会者にOSの名前が前面に出てこない点を聞かれた際、「目につかないところで重要な役目を果たすネジのようなもの」と答えていました。

市場シェアにおいても、国内では組み込み分野において長年トップシェア(約6割)を誇っているものの、2010年頃までは海外ではまったく使われていなかったようです。輸出された日本製を除けば、世界的にはAndroidやLinuxが大半です。

TRON系OSのシェアは60%、RTOSの2018年度利用アンケート調査結果を発表

ITRON - Wikipedia

日本製は結局、OSの分野でもガラパゴス化してしまうんです。


追記:坂村氏のインタビュー記事「世界が認めたTRON、世界に羽ばたくT-Kernel。坂村健氏と語る、これからの組み込み」によれば、現在はドイツの自動車や米国のプリンタなどでも使われているとのこと。彼によれば、組込みOSにおいてヨーロッパにはトロンのような業界標準はなく、LinuxはIT系のシステムとのことでした。組込みOSとしては世界トップクラスのようです。

いずれにせよ、ハード志向な日本人らしいテクノロジーと言えます。(追記 終)

さて、『パーソナルコンピューティング三〇年』の著者は、次のように言及しています。

『これもまた大きな歴史の転換点だった。もしも妥協せずにBTRONを教育用コンピューターに採用していたら、日本はWindows95の出現以前に、柔軟なGUIを持つ国産OSを持つことができただろう。それがどのような可能性を持ち、発展して行くことができたかを想像すると、失われた可能性の大きさに気がつく』

でも僕に言わせれば、たとえBTRONが継続されていたとしても、日本人の精神文化ではシリコンバレーレベルの発展は困難だった、国際標準にはならなかった、少なくとも、使いやすいGUIをデザインすることはできなかっただろうと想像します。どのみち、90年代半ばのWin95やGoogle、Apple復興に圧倒されていたのではないでしょうか。

要するに、モノとしてのOSを用意すればいいというものではなく、開発・運用していく側のセンスも必要だということです。


13a)一般的に技術者というのは、「技術」そのものが興味の対象であって、デザイン=見栄えと解釈し、使い心地には配慮しません。というより「この技術とこの技術を組み合わせれば便利なものができる」と単純に考えてしまう傾向があると思います(例:先のWindows/Symbianケータイ)。

「ユーザーが触れることになる部分」への細部の気配りと全体の調和は、彼らの世界観には存在しません。別に彼らをバカにしたいわけじゃないんです。ハード技術者に製品開発の比重が偏りすぎているから「じゃあ彼らのデザイン・ソフトウェアセンスどうよ?」ということです。

たとえば慶応義塾大の教授であり、ユーザーインターフェイスの第一人者と称される増井俊之教授は「iPhoneの日本語予測変換」の開発に参加したことで知られていますが、彼のiPhoneのデザインに関する分析はこうです。

『iPhoneが全面をタッチパネルにした最大の理由は安く作れるからだと思います。各言語のキーボードも要らないし、メカニカルな機構がないから壊れにくい。カッコよくて素晴らしいデザインだから、という側面もあるのでしょうけど、まるでほかの選択肢がないかのように信じ込ませる所がジョブズ氏のすごいところでした』

(『アップルのデザイン』日経デザイン)

「最大の理由は安く作れるから」「カッコよくて素晴らしいデザインだから」

技術者代表として彼を挙げましたが、実世界指向GUIの研究者でさえ、このような見方に帰着してしまいます。

一方、元MITメディアラボ所長の伊藤穰一氏の分析はこうです。

『よし電話を一生懸命デザインしよう、と思ってこんな形にはならない。これはアートなんです。アートができて、そのあとにデザインとエンジニアリングを組み合わせて実現させる。だから本当のジャンプというのは、アートとサイエンスがないと跳ばない。デザインとエンジニアリングだけだったら、本当のとんがったもの、本当に世の中を次に動かすものは生まれてこない』

Youtube:伊藤穰一 - キーノートセッション「科学とデザインがもたらす複雑性への考察」

コンピュータ科学者においても同様で、トロンの坂村氏とアラン・ケイとでは、思想の深みや洞察力の次元が違います。トロン構想よりもケイの『Dynabook構想』のほうが人間主軸で子どもたちの教育も重視しており、哲学的に優れていました。そしてやはり、Dynabook構想の95%はソフトウェアサービスで、ハードは残りの5%にすぎないとのこと。

そのケイが在籍していた頃のゼロックスパーク研究所で生み出された技術は、単体ハードをはるかに超える規模で、「パーソナル・コンピュータ」「ビットマップスクリーン」「GUI」「WYSIWYG」「デスクトップパブリッシング」「オブジェクト指向プログラミング」「レーザープリンター」「ポストスクリプト」「イーサネット」「Peer-Peer」「クライアントサーバー」、そして「インターネットの最初の50%」などがありました。

彼らは現代のデジタル・情報革命社会の基盤をことごとく築いたのです。

ところが東芝は安直なことに、自社のラップトップPCのブランド名にその「dynabook」を使い、30年もの間、なんの恥じらいもなく使い続けてきました。宣伝にはDynabook構想を匂わせる「みんなこれを目指してきた」というコピーを使っていたこともあります。しかもいさぎよいことに、そのブランド名は日本国内のみでの使用で、海外版では使われていません。

こういった日本文化に浸っている科学技術者たちを俯瞰すると、日本メーカーが海外勢(特にシリコンバレー)と渡り合えないのも納得です。


13b)技術立国日本では、デザインやデザイナーは軽視されがちな風土が完璧にできあがっています。技術者だけでなく、デザインのなんたるかを知らない営業マンや経営者が製品デザインに横やりを入れてしまう文化です。

海外の大企業ともお仕事をするあるフリーランスのデザイナーさんから直接伺った話によると、日本ではデザイナーに求められるのは肩書きと過去の実績。最も重要なのは担当者と気が合う事で、デザインそのものはあまり語られず、依頼者はデザイナーよりも代理店と優先的に話をする。

一方、ヨーロッパやアメリカ本社からの担当者はデザイナーと直接話をしたがり、世界的に有名な企業の上層部でもかなりのリスペクトを持ってデザイナーと話をしてくれ、成果物に対する評価や議論も本気でぶつけて来ると。これは20年以上仕事をしてきて100%毎回だそうです。

国民も「安い」「スペック」といった量的な指標を重視する価値観がきわめて強く、醜いデザインに苦を感じることなく受け入れてしまう傾向があるように思います。

日本のメーカーはなぜAppleのような洗練された製品が生まれにくいのですか?に対する鈴木 安治さんの回答

何故、日本製品の多くは、デザインがカッコよくないのですか?に対するShige Kimuraさんの回答

(※日本のiPhone普及率が世界一なのは「まわりのみんなが使っているから。可愛いアクセサリーが多いから」といった心理作用が強いです。)

たとえば新幹線500系の外装フォルムを手がけた工業デザイナー、アレキサンダー・ノイマイスターは日本の新幹線に警鐘を鳴らしています。

『かねてから私が不思議に思ってきたのは、これほど質の高い製品を生産することができ、しかも豊かな伝統を有する日本という国で、どうして両者を融合させた普遍性の高いデザインを作り出せないのかという点です』

『ドイツが日本と何より違うのは、デザイナーが開発チームの一員として、プロジェクトの始まりから終わりまで参画することです。最初のコンセプト出しからプロトタイプの最終チェックまで関わり、常にエンジニアとの息の合った協働が必要となります』

『日本の文化、伝統、美意識を500系に盛り込むことはできませんでした』

『やはりニッポンの新幹線は、テクノロジー志向の産物というイメージであり、「地下鉄の延長」とみなす発想に長らく支配されてきました』

『空気力学的な意味での条件は、極論を言えば、車両を取り巻く空気の流れと圧力を均等にすることに尽き、丸い断面がその実現の一端を担っています』

『一般的に鉄道車両の断面形状は、先頭のかたち、いわゆるノーズのデザイン的な可能性と不可分の関係にあります。車両の先端形状は、断面によって決定されるといっても過言ではないのです』

『Industrial Designerとしての個人的な見解を述べるならば、500系の円形が継承されなかったがために、日本の新幹線は将来的な発展の契機を逸したと思います』

『列車は、以前にも増して高速で運転されるようになったにもかかわらず、再び矩形の、つまり箱型の断面形状を呈する車両が主流となり、そのノーズは、空気力学的には非常に複雑で、一種の「アクロバティックなデザイン」に陥ってしまいました』

『2009年2月付けで発表されたJR東日本の報道発表資料「新型高速新幹線車両(E5系)のデザインについて」を見て思ったのは、仮に10〜20年という短命な運行に終わるとしても、これはとても2010年の日本を代表する「創造的なデザイン」とは言い難いですね』

(『新幹線EX 2010冬Vol.14』インタビュー」)


繰り返します。スマホOSの開発をもし行っていくとしても、「徹底したソフトウェア重視」「使い心地を左右するUIデザイン」が最低限必要な二大要素となります。そして現代日本人は精神文化レベルで、両方のセンスが著しく欠落しているのです。

今の日本人の意識は「形・重さをもつもの/直線的な指標」に固着しており、「無形のもの/有機的な感性」をうまく評価できなくなっているようです。これを「唯物観」と言います。

「石ころ一つにも神は宿っている」とする宗教観、「わび・さび」を感じとる繊細な感性、世界中の一流の建築家やデザイナーたちを魅了する美意識、これらを生み出してきた日本民族はどこへやら。

というわけで、「日本の携帯電話メーカー」が「独自OSを各社合同」で作り、「世界の携帯電話シェアを奪いに行く」のはムリでしょう。アップルやグーグルは雲の上の存在なのです。

このままだと日本は、次の30年もテクノロジー分野で苦戦を強いられるおそれがあります。

『モノと心が表裏一体であるという自然の姿を考慮に入れることが近代科学のパラダイムを打ち破る一番のキーだと思う。こういったパラダイムシフト、つまり人間の心を満足させることを考えていかないと、21世紀には通用しなくなることを覚えておいていただきたい』

- 井深大(『井深大 自由闊達にして愉快なる』)

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