私は1972年に働き始めましたが、それ以前からパリにあった父のオフィスに行くことがあったので、その期間も織り交ぜた回答になっています。
大きな違いの1つは、2つの部門の存在です。
- タイピング部門
- パンチカード部門(プログラミング環境用)
ホワイトカラー労働者、管理職、プログラマは、ほとんどキーボードに触れることはありませんでした。メモや手紙は紙に手書きされるか、ディクタフォンに吹き込まれました。(訳注:ディクタフォンは、録音・再生ができる機械です。)
そして、タイピング部門に届けられます。
上級管理職には秘書が付いていましたが、アシスタントも付くことがありました。アシスタントはタイピング部門に行き来して、成果物が戻ってくる前に確認をしていました。
プログラミングは、今日と比べると楽しくはありませんでした(そして、遅かったのです)。プログラムをコーディングシートに書き…
パンチカードに穴を開けるため、パンチカード部門に送られます。
インタラクティブなアクセス環境はありません。私の最初の仕事では、1日に1回のコンパイルが許可されていました。(というのも、カードリーダーは、他の作業や生産システムなどにフル稼働していたのです。) パンチカードにエラー(キーワードのスペルミス、シンタックスエラー)があると、エラーのリストが返却されます。ですので、以前はかなり徹底的にチェックをしていました!
経験を積むにつれ、インタラクティブなアクセス環境(テレタイプ端末)を与えられました。(訳注:テレタイプは、タイプライター式の電信機です。)
70年代半ばには、私はミニコンピューター(DEC社のPDPシリーズ、Data General)を使っていました…
ミニコンピューターには視覚表示装置が備わっていたので、パンチカード部門は消滅しました。タイピング部門も消え、ワードプロセッシングオペレーターに置き換わります。(ワードプロセッシング端末は、ワードプロセッシング専用のマイクロコンピューターでしたが、画面と出力結果が一致するものではありませんでした。)IBM Selectric タイプライターは、過去のものとなります。
ホワイトカラー労働者は、ワードプロセッシング端末の使用を許可されておらず、秘書が行わなければなりませんでした。
1960年代初頭、コンピューター室はまさに要塞で、堅牢なドア、凍えるほどの室温で、技術者(コンピューターのスペシャリスト)は白衣を着ていました。
ファクシミリ機は60年代には存在しました… 巨大で、騒々しく、高価な機械です。
ですが、2地点間の高速文書コミュニケーションの主流は、テレックスでした。(訳注:テレックスは、テレタイプ端末を使用した通信方式。FAXやEメールの前身。)
もう1つ付け加えておきます。「ホワイトカラー労働者は、ワードプロセッシング端末の使用を許可されておらず」と書きましたが、真実はほんの少しだけ違います。
ホワイトカラー労働者は、ワードプロセッシング端末に触れることで、まるで秘書(またはコンピューターオペレーター)のように思われたくなかったのです。ですが、一部は早い段階で可能性を見出して使っていました。
回答者:ブルース・ブラクソン|個人事業主