量子力学で、「シュレディンガーの猫」という論があります。
これはWikiでも調べられますから詳しい説明を控えますが、この論について「毒ガススイッチのついた箱の中の猫が生きているか死んでいるか」は「箱を開けてみればいい」というひとがいますが、「箱を開けようとすると気配を感じて毒ガススイッチを押してしまう可能性」があるので結局「毒ガススイッチのついた箱の中の猫が生きているかどうか確定定義できない」ことに変わりはありません。
出だしから「ややこしいこと」を書いているかもしれませんが、「量子力学などで、確定定義できることはなにひとつない」といわれるように、
「人間を定義」することすら出来ないのです。「有機物で代謝をしていて云々」と述べたところで、その定義と同じ「アンドロイドや宇宙人などがいない証明」がなければ、人間を定義したことにはなりません。
「生きている」という状態も「昨日までのあなたはじつは別次元で死んでいて、いま生きていると思っているあなたは昨日とは別の次元にいる」ともいえますから「生きている状態」を定義することもできません。
これは「電子実験から導かれているパラレルワールド」という論にありますから、wikiって見てください。
人間と仮定定義される存在が「脳」をはじめとして、電気信号によって「生きている」とされる以上、「電気で動く」ならそれは人間と定義されるより「器械」と定義することもできます。
すべてが「量子」によって構成されているならば、「量子」しか存在定義できないともいえるし、「量子」さえも「認識」が生み出しているとするなら、「量子」も「存在定義」できません。
仏教に「唯識」という論がありますが、「すべてが認識による」ならば、認識主体を証明しなければならないことになりますが、仏教の唯識では「認識主体」は「空」つまり「無自性」「実体はない」「実体を定義できない」としています。
このようにいろんな観点から導かれる「論」によれば「すべてが仮定定義」でしか存在し得ないことになります。
とはいえ、だからといって「じゃあ殺してもいい」という定義もできないうえ、「殺したら地獄に行くとも行かないとも」定義できません。
結局「これが現実世界だ」と「仮定定義されるなかを生きる」しかないのです。
こういう「科学などで論じる必要がない」日常を生きている中において、このような議論は「戯論(たわむれの議論)」になりますから、
どうぞ「現実をありのまま生きられるよう」強くお勧めいたします。