死はもともと「Body からエネルギーがなくなった状態」で日本の古代思想ではこれを「気枯れ(ケガレ)」と言いました。
また「血液」が「エネルギー」を生んでいると考えられていて、そのポイントから「女性の生理」を「出血=気枯れ」だと考えられていたのです。
これが見た目の「キレイではない状態」から「穢れ」という意味に変化したとされていると「随分むかしに学んだ」覚えがあります。
「死体」は現代ではキレイに処理されますが、むかしは「ドライアイス」なんかがなく、衛生的にも現代とは違うので、動物が近づいて来たり、
虫が湧いたり、腐敗したりという状態になりますから「キレイではない」状態のケースが多かったのです。
話しを戻せば、日本の「神社」などは、そういう「エネルギーがなくなる」といった状態の存在を「神前」に持ち込むことは「神に無礼」というような概念があったようで、「忌み嫌われてきた」ようですが、現代では「神社で葬儀」も可能になりました。
また、日本人はよほど「死にたくないひと」が多かったのか、「死について語ること」も嫌われてきました。
これは、心理学の「マズローの欲求5段階説」でいうと、日本が「生存欲求レベル」にあった時代の「ひと」に多く、日本が高度経済成長をして、安全欲求も満たされて、「愛情欲求」を求める時代になった昭和40年以降に生まれたひとや、よほど「人生に解決し難い問題」をもつひと以外は「認められたい、わかってほしい」という人が増えて、いまや「生きる意味」を問う「自己実現欲求時代」になりました。
このような歴史の変化のなかで「とくに生きる意味を感じない」という人が増えており「死んでもいい」と普通に思う時代になっています。
新宗教などは「そのポイント」をついて「生きる意味」を教えるという「宗教団体」などが増えています。
このような状況や状態において「どういう人生観を持つか」ということが、先進国の人間にとって必要なのかも知れません。